天為二百号記念特集

    「検証・戦後俳句」
      もう一つの俳人の系譜


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      相生垣瓜人論

      
 ー 抑制の詩人 ー


                  久野 雅樹



 相生垣瓜人の俳句について語るに先んじて、彼の経歴を簡単に記す。明治三一(西暦一八九八)年、兵庫県高砂市の生まれ。本名は貫二。師の秋桜子が二五年の生まれで、四Sの他の三人、素十、青畝、誓子はそれぞれ二六年、三二年、三四年の生まれ。年齢的にはその世代の人である。「天為」誌上の文章ということで加えれば、昭和五年生まれの朗人のほぼ一世代上となる。もう一つ加えて、川端康成や池田勇人と同年というと、時代のイメージを持ちやすいかもしれない。
 瓜人は、大正九年、東京美術学校製版科を卒業し、浜松工業学校に図案科教員として職を得る。以後、一時、福山に移るが、それを除いた教員時代とその後の隠遁時代を浜松で過ごした。昭和三年より「ホトトギス」への投句を始め、六年、「馬酔木」に参加、八年、第一期同人となったのち、二十五年、百合山羽公と俳誌「海坂」を創刊している。三〇年の第一句集『微茫集』で馬酔木賞、五〇年の第二句集『明治草』で蛇笏賞を受ける。六〇年、八六歳で逝去。翌年、羽公らの手で第三句集『負暄(ふけん)』が刊行されている。
 瓜人についての個人的知識といえば、この評を引き受ける前には、二十年近く前、俳人協会「自註現代俳句シリーズ」の『相生垣瓜人集』を読んだことがある程度だった。彼の自註は、第一期の三十点のうちの一冊だが、第一期は、風生、青邨、秋桜子、青畝、誓子他、錚々たる顔ぶれである。彼らと同じカテゴリの作家ということで、たまたま旅先の大阪の古本屋で見つけたのを縁として一通り読んだのだ。
 白状すると、当時、おもしろいとは思えなかった。しかし、それも仕方ないことであって、二十歳そこそこの若僧がさっと読んで容易にわかるものではなかったのだ。本稿の依頼を受けたときも、かつての読後感が気がかりだったが、幸い今度改めて読んでみたところ瓜人の句はおもしろかった。いくばくかの年季と、集中的な読みがもたらしたであろう、この変化は愉快な経験として印象深い。
 ありがたいことに昨年暮れに角川書店から全句集が出た。これは「海坂」(正確にはその前身の「あやめ」)の創刊六十周年を記念して出版されたもので、三冊の句集に収められた全作品三一八四句が読める。本稿は、この全句集と先述の自註を主な手がかりとして、瓜人の句を論じる。なお、本稿では、俳句、文章とも引用には、原則として新字を用いた。引用分については旧字を使う方がよいのかもしれぬが、厳密に適用するのも煩に堪えない。全体の読みやすさのためということで、ご了解いただきたい。


   初期作品の詩情

 俳句を始めた昭和三年、瓜人は三十歳で、その後、早くに「馬酔木」を舞台に頭角をあらわしている。十年余の句作を経て、戦中戦後の一時期、俳句から遠ざかるが、この中断前の初期作品には、虚子の花鳥諷詠、客観写生を批判して「馬酔木」を興した師・秋桜子の句と通底する詩情が強く感じられる。第一句集『微茫集』の前部、昭和五年から十六年までの句で構成した「黄茅抄」がそれである。十年余をひとくくりとしていて、後年確立する編年体はとっていない。テーマ性をもった連作も散見し、「八ヶ岳夏澤鉱泉 三句」「北アルプス縦走 二句」「孤独のゴオホ 二句」「ロダンの作品より 六句」といった前書を並べるだけでも、当時の彼のテーマなり志向性なりがある程度うかがえよう。
  「黄茅抄」の句からいくつか引く。

  朝ぐもり海岸日傘ひとつひらく
  向日葵と闘ふ如く描くなる
  一本の冬木をこの日見了らず

 一句目、自註では「若い頃新しいフランス絵画の虜にもなっていたがその時の心持」としている。二句目、ゴッホの向日葵を彷彿とさせる。三句目、「セザンヌ生誕百年記念の日」と前書がある。いずれも、自身の美術的関心と重ねつつ、若々しい情緒や情熱や憧憬を読み込んだ佳作である。時に甘く、時に激しく、時に分析的で  それらをまとめて外光を感じさせる印象派的な世界とでもいえばよかろうか。


   長い老境と内省的句作

 こうした初期作品もそれはそれでマイナーポエット的な輝きをもっているけれども、瓜人の本領はその先にある。若さの後の老いである。『微茫集』の後部(といっても量的には八割くらいを占める)は「白葦抄」として、戦後、作句を再開して後、昭和二三年から二九年まで、五十歳から五六歳までの作品をまとめていて、そこには老いの感覚がはっきりうかがえる瓜人らしい俳句世界が出現する。五七歳での第一句集の刊行は、同年代の俳人と比しても遅いが、そこで既に老成した独自の地平に到達している。
 この「白葦抄」では表面的形式の上で、二つの特徴があらわれる。一つは編年形式をとっていること。これは第二、第三句集でも踏襲される(本稿でも「白葦抄」以降の句は年次を句の下に記すこととする)。もう一つは、前書の使用が途中で絶えること。句集三冊を通して、前書は、二七年の「桂離宮 七句」で最後となる。厳密には「先生の訃」と題する一連の句が例外的に『負暄』にあるが、それを除くと三千近くの句に前書も注記もない。子規以降、近代俳句はおおよそ前書を排除する方向で展開してきた。五七五の本体のみで作品として自律したものになることを目指した。瓜人の態度は、形式上、この方向性を徹底したとも言える。
  「白葦抄」から引く。

  人の世に木賊も蘆も刈らで老ゆ   (昭和二四年)   
  烏蝶来ては胃の腑に陰すなり    (昭和二五年)   
  恙ある眼に狐火を見むとする     (昭和二五年)   
  暑き夜も寝ねて尸すべき時至る   (昭和二五年)   

 一句目、木賊を刈ったり蘆を刈ったりという日本的な風流がかなわぬままに老いることへの嘆き。二句目三句目、身体的な不調に意識を向ける。胃を病み、眼を病む。その身体状況を烏蝶や狐火とつなげ、禍々しさの気分、あるいは寂しさの感覚をまじえて、ひとつの心象風景として詠んでいるところが瓜人流である。四句目、孔子の言葉「寝ぬるに尸せず」を踏まえる。論語では死体のように無様に寝るなという戒めだが、「寝ねて尸す」のもまたよしとするところに老成的諦念がある。
  『微茫集』は浜松工業高校からの退職を機に出版されている。その後、瓜人は俳句を中心に据えた自適な生活に入り、その二十年分の成果を第二句集『明治草』にまとめている。収録したのは発表した作品の半分で一三一八句。充実した老境というのも妙だが、まさしくそう言うべき句集である。
  『明治草』から老懐の句を引く。

  永き日のなほ永かれと希ひけり   (昭和三〇年)   
  仄とあり古帷子に裹(つつ)まれて  (昭和三二年)   
  瓜食めば老いし此の身ぞ思ほゆる  (昭和四〇年)   
  別腸と言ふも涸れつつ年立ちぬ   (昭和四五年)   

 一句目、退職直後の安らいだ気分。二句目、あの世とこの世のあわいのような気配がある。「仄と」や「仄か」は「寂か」「幽か」等とともに瓜人の好む表現。三句目、瓜を食べて、子ならで我が身に思いがおよぶのもまた老いの仕業。四句目、酒のはいる「別腸」が衰えた身をもっての新年。瓜人の描く風景には、達成感や実りではなく、喪失感や寂しさがあり、それが彼ならではの俳味、軽みになっている。
  『明治草』から、やや目先の変わった老境の句を引く。

  夢にてはなほ力泳に堪ふるなり   (昭和四六年)   
  竹馬の高からざりし記憶かな     (昭和四八年)   

 夢にしても記憶にしても、心の中の光景であり、実景ではない。若き日の自分、遠い自分を、当人でありながら第三者として見ているような描き方だ。ビデオ映像かアルバムの写真のようである。美しいイメージだが、ヴァーチャルといえば、ヴァーチャルな世界であり、こうした表現もまた彼の得意とするところである。
 瓜人は八六歳で心筋梗塞により没する少し前まで、安定した作句活動を続けている。句作再開後、三六年間におよぶ老境三昧ということになる。遺句集『負暄』は、『明治草』後さらに十年余の句一四三二を収める。亡くなる年(二月七日没)のものが一月分で一四、亡くなる前年のものが一四〇、前々年が一三七といった具合で、最後までその句作は衰えることがなかった。もちろん心身は徐々に衰えるのだが、それを句にする営みが衰えないところに瓜人らしさがある。
 最晩年の句を『負暄』から、いくつか引く。

  恩赦とも言ふべし春に又遭へり   (昭和五七年)   
  老愁のその一端の秋思かな    (昭和五七年)   
  年終も年始もなべて淡々し     (昭和五八年)   
  晩年も冬も長しと思ふなり      (昭和六〇年)   

 同じ老境といっても、先の二句集よりも力が抜けている。老愁がにじみつつもさらりとしていて、全体に淡く軽い。『負暄』には、前の二句集のような作者自身による再度の絞り込みを経ていないということもあるのだろうが、瓜人の素地がむしろよく出ていると感じた。
 瓜人は内省性、内向性が強い。彼の眼差しは内面に向かいがちだ。時にそれはイデアに向かうとでもいった趣となってあらわれる。また、「見る自分を見る」「感じる自分を感じる」というような、一段上のところから意識し直した表現ともなる。先に引いた夢や記憶の句もそうだが、いわゆる対象を写生するという態度ではなく、外の季題に内の気分や情念をからめてゆくところに彼の表現の特質がある。
  『負暄』からさらに引く。

  見し牡丹胸裡のそれに劣りけり   (昭和五一年)   
  幻の鷹も現の鷹も見し        (昭和五一年)   
  亀鳴くを老いて愈疑はず       (昭和五二年)   

 既に脳の中に理想的想念があって、それを反芻しつつ外景に向かうと、こんな句が生まれるのだろう。そして、内省にも、青年、中年、老年、それぞれで違いがある中で、瓜人は老年における内省を見事に表出している。
 三句集から、老境の句を挙げてきた。俳句と老いに親和性があることについては、今さら言うまでもない。しかし、明治から大正、昭和に至る俳句の展開の中で、老いは長らく周辺的なテーマだったのである。俳句革新の担い手は多く若者であり、子規以来、病や死は比較的身近なものであっても、老いはリアルで野心的なテーマになりにくかった。この老いを実質的なテーマとして浮かび上がらせる形で俳句世界を構成したという意味で、瓜人は早い時期の作家であると言えるだろう。また老人の内面世界の表現を三十年以上の長きにわたって念入りに続けたという点でも傑出している。そしてその描く精神生活が、しんどいけれども、ひどく深刻ではなく、ぼちぼちやっている、という感じであるのが好ましい。


   地味で古風な変人の独自性

 瓜人の第一句集は昭和二九年まで、第二句集は四九年まで、第三句集は六〇年までの句を収める。戦前の作品も少しあるものの、戦後の復興期からバブル(六一年に始まったとされる)の少し手前までの時代の作品が彼の句業の大部分を占める。日本は全体としては高度経済成長を続け、いわゆる右肩上がりの時代にあった。しかしおもしろいことに、それとはまるで無関係であるかのように自らの本然に沿って穏やかな歳月を重ねているところに瓜人の真骨頂がある。
 同い年の池田勇人による所得倍増計画は、昭和三六年からの十年間のことで、ちょうど『明治草』の時期に重なる。この間、東海道新幹線が開通し、東京オリンピックがあり、大阪万国博覧会があったが、瓜人の描く世界はそうした社会状況に背を向けるようなものである。一般に時事の話題が俳句の埒外であるのはそれとして、わずかにその種のことがうかがえる句に次のものがある。

  年の夜の聞くに堪へざる鄭声や   (昭和四二年)   

 ここでの「鄭声」は紅白歌合戦のこと。自註に「猥らな俗曲を鄭声と言う。孔子も是を却けた。最も謹慎すべき除夜に、東方の君子国では是を全国に放送するのである。正に末世と言うべきである。」とある。瓜人の規範に照らせば、今から四十年前の日本は既に「末世」だったのだ。
 またこの時期、いわゆる三種の神器をはじめとする諸々が家庭風景をも変えていったが、瓜人の日常は変わらない。世間とずれた変わらなさ加減が、変化の激しい戦後の日本にあって変わっている。近現代の俳人は、時代を詠もう、社会を詠もう、新しい材料を詠もうと意気込んだ。瓜人のありようは、そうしたところから遠い。

  古耳ぞ砧の音もあるべかり      (昭和三六年)   
  団扇にて古びし涼を納れにけり   (昭和四五年)   

 古びたところから世をながめ、古びたままであろうとするところが、逆説的に彼の独自性となっている。
 瓜人の句は、その内容に関して、すぐにわかる目新しさや、華やかさに乏しい。地味といえば地味である。二十年前に読んだときにぴんとこなかったのも、それが大きい。
 だいたい句集のタイトルからして地味で謙虚で古風である。第一句集の「微茫」は景色等がぼんやりとしている様である。句集内の前後二部に「黄茅抄」「白葦抄」の題を与えているが、「黄茅白葦」とは茅や葦がただ広がる単調な情景のことで、内容のない平凡な文章や人物をも指す表現だ。
 第二句集の名になっている「明治草」は、キク科の雑草ヒメムカシヨモギの別名で季節は秋。明治草と呼ぶのは北米原産で明治初めに渡来したため。蛇笏賞をとった句集に冠されたこの草は、瓜人の生活と俳句のカラーを象徴する。
 明治草を詠んだ句から引く。

  ひめむかしよもぎこそ咲け誕生日   (昭和二九年)   
  明治草侘しき林なせりけり       (昭和四〇年)   
  保ちゐる枯縞の状や明治草      (昭和四六年)   
  枯れきりし物の中にも明治草     (昭和四七年)   

 一つ目は、『微茫集』の最後近くの句。八月十四日の誕生日に重ねた。二句目三句目は、『明治草』の句だが、その後記で前者について「小生の古びた俳句の姿のやう」とし、後者の句について「このくすんだ句集の趣のやう」とする。しかしまた四つ目の『負暄』の句に見られるように、この草には独特の存在感や風格がある。いずれも明治草の植物としての風情に寄せた句だが、「ひめむかしよもぎ」といい「明治草」という、その言葉の成り立ちにも思いを込めている。戦後の日本にあって「むかし」を引き継ぎ、「明治」を体現する自分なのだ、という恥じらいを帯びた自負をも感じる。
 遺句集の題となった「負暄」の語については後で改めて書くが、日向ぼっこのことで、これまた地味であり、年寄りめいて古めかしい。ついでに固い表記に頑固な気配がある。


   打ち消しで浮かび上がる世界

 地味と先に記したが、地味なりに瓜人の句材は癖が強い。大いに好んで取り上げるものがある一方で、忌避ないし無視しているようなものもある。「何を詠むか」とあわせて、「何を詠まないか」もまた俳人を特徴づける。
 句集を読みつつ全句集の季題別索引も参照すると、微苦笑を禁じ得ない。花や月の句が数として多いのは当然として、相対的に目立つものを任意に挙げると、新年、豆撒、耳の日、涅槃会、利休忌、蝶、牡丹、梅雨、蟻、蚊、蜈蚣、蝉、子規忌、毒茸、秋の声、柿、鵙、鵯、立冬、日向ぼっこ、大晦日、等々。
 その一方で、例えば、祭の句がない。秋祭の句もない。鮎も鰹も河豚もない。スキー、スケートがない。長く教員をしていたわけだが、入学や卒業の句がない。ついでに一句のみの季題を幾つか挙げれば、恋猫、麦酒、夕立、西瓜、コスモス、クリスマス、年忘、等。これらは、私個人としては、なじみを感じるのだが、瓜人はこれらの季材につれない。
 彼は身辺の細々としたものを詠み、暦にあらわれる季節の巡りを詠む。その一方で、華々しいもの、人事や仕事にからむもの、新奇なものには目を向けない。旅吟は初期のものを除いてほとんどない。酒食の句も限られている。
 そうしたないない尽しの中で、「春愁」の扱いが特徴的で興味深い。

  春愁の一句無くして老いにけり    (昭和三八年)   

 これは六四歳での作。「けり」の慨嘆が決まっている。
 その後、八二歳で次の句を作っている。

  老懐にして春愁にあらざらむ     (昭和五六年)   

 もう筋金入りである。「春愁の一句無くして」を生涯貫いたと言える。存在自体に深く愁いがしみとおっている。結びの「む」にも寂しく自己確認をするような思いがこもる。
 ここで「一句無く」も「あらざらむ」も打ち消しの表現であることを指摘しておきたい。何かを「詠まない」というのは、それ自体、広い意味で打ち消し的な表現行為だといえるが、ここで念入りなのは、春愁を詠まない、春愁ではない、と明示して表現しているところである。
 既に挙げた句の中にも散見するが、瓜人の句には、総じて打ち消し表現が多い。もう少し引こう。

  吾曾て一視S(れいき)だに打たざりき (昭和三三年)   
  蝉鳴かぬ寂けさと鳴く寂けさと      (昭和三五年)   
  春睡も既に濃からず甘からず      (昭和五一年)   

 一句目、これまで一度も豆で鬼を打つことをしなかったというのである。この句に限らず、彼の生き方自体にも、打ち消し的なところがあるように思う。それは時に弱気で控えめな個性によるものなのかもしれないが、「一視Sだに」と殊更に言えるほどに徹底しているところは偏屈で粘着的でもある。二句目、否定と肯定とを組み合わせて描く奥深い寂けさ。三句目、ありふれた感慨二つをともに打ち消して、かつてあった快眠が失われた後の様子をうまく書き留めている。
 打ち消しには、強さ、きつさがある。その一方で、通常の肯定の言い切りではないことがもたらす、表現の間接性がある。「〜でない」という打ち消しを使った言い方は、図と地という対比で言えば、地に目を向けたものである。「〜でない」という絵は普通描けないが、言葉では容易にそれが表現できる。打ち消しによって図を浮かび上がらせる力が言葉にはある。先の「春睡」の句も、「老人の眠りは薄く苦い」のようにぺらっと平面的に捉えるのとでは、味わいが違う。
 瓜人の句を改めて読んで、まず思ったことのひとつが、この打ち消しの多用とうまさだった。打ち消しは、時にもってまわった表現にもなるが、適切に使えば、俳句の五七五の狭い空間をぐっとふくらませるためのバネのようにはたらく。単独の作品でもそうだが、そうした打ち消しの屈折がいくつも重なるところで、ぼうっと浮かび上がるような世界が、瓜人の句集にはある。


   暦と蟄居が生む小宇宙

 前項のとおり春愁は詠まないのだが、瓜人は基本的に愁いの人である。愁いの人だからこそ、春愁などという甘ったるい季題は詠む気にならなかったのだろう。では何を詠むかといえば、季題として数が多いのは、群を抜いて「梅雨」である。「入梅」「梅雨明」「梅雨晴」等も含めると、一五〇を越す。

  梅雨近く梅雨にあらざる雨降れる    (昭和二六年)   
  胸裡にも梅雨前線横たはる       (昭和五〇年)   
  梅雨が来て又残生を暗くせむ      (昭和五六年)   
  抗し得ぬ梅雨なることは知悉せり    (昭和五八年)   

 梅雨は自然現象であるが、彼の基本的な情緒と重なるところがある。憂愁、倦怠、軽鬱、諦念等々。梅雨を疎み嫌いつつ、そのありようを様々にとらえて向かい合い、折り合いをつけ、受け入れている。
 もうひとつたくさん取り上げているものに虫がある。瓜人の句を読んでいて、なんでこんなにも虫が出てくるのかと驚いたほどである。少し広げると小さな生き物に目が行くらしく、鵙や鵯といった鳥もよく句材になっているが、なんといっても虫である。わけても蚊、蚤、虱、蜈蚣、蟻、蠅といったあたりの、今の都市生活からは失われつつある害虫が主役。害のない虫では蝶と蝉が多い。他にも蟇、蟹、蛇等、ごく広い意味での虫を詠んだ句もまた多い。
 第一句集に、

  年と共に蚤の句なども殖えてゆく    (昭和二五年)   

 があるのは象徴的である。
 虫の句を、さらにいくつか引こう。

  蚤の句を詠まざらむとも力めけり    (昭和二七年)   
  蟻の螫(さ)す痛さ藪蚊の螫す痛さ   (昭和五〇年)   
  五肢の蜘蛛なりしが敢て打ち据ゑき  (昭和三三年)   

 いずれもいわゆる写生句ではない。自分との関わりの中での虫の姿を句にしている。一句目、詠まないぞと力むというのも妙である。まさしく独り相撲である。しかも結果的に詠んでしまっていることのおかしさ。二句目、同じ「螫す」でも蟻と藪蚊では違うことを対比する。この「螫す」は瓜人の作品で際だって目に付く語であり、三句目の「打つ」も何度も出てくる語である。
 瓜人の句の中では、虫がとても大きなものに感じられる。彼の心は普通ではない親密さで虫とともにある。鳥獣戯画のような世界で、虫と相撲をとっている姿が浮かぶ。客観的な虫というより、抽象化された虫がすでに心中にあって、それが眼前の虫に触発されて俳句表現に至るといった感じだ。
 動物でなく植物に目を向けると、梅や牡丹といったメジャーなものも好みの季題のようだが、それとは別に絶対数としては一二と多くないものの異彩を放つのが毒茸の句。

  毒茸は毒々しきぞ潔き         (昭和三七年)   
  毒茸の侘びに侘びつつ失せてゆく  (昭和四七年)   
  毒茸に嗤はれたれば打擲す     (昭和五三年)   

 毒茸の特質を強調して引き出し、あるいは毒茸をも打ち懲らしめる。虫に向かう姿と相似形をとる。
 梅雨にしても、虫にしても、毒茸にしても、隠遁蟄居の半ば引きこもり状態の生活に親しいものどもである。これらを日々の友とするのに加えて、瓜人の句の季題について特徴的なこととして、暦の上での節目を取り上げたものが多い。先の「吾曾て一視Sだに打たざりき」や「年の夜の聞くに堪へざる鄭声や」もそれ。編年体のそれぞれの年は、おおむね新年や初春の句で始まり、行く年や大晦日、除夜の句で終わる。その両端の間に豆撒きや立春、耳の日、涅槃会、利休忌といった節目の季題が喚起する感慨が詠み込まれる。こうした節目は、人為による約束事である。それに忠実に従いつつ、その節目の間を埋めるように、次々あらわれる虫と闘い、様々な顔を見せる梅雨空に鬱屈し、といった具合に身辺の自然物を配するのが、瓜人の一年の基本的な構成である。
 以上のような具合で、瓜人の住まう俳諧的世界は、現代人の標準的な生活時空とはかなり違う。俳人の平均的世界認識とも異なる。しかし、その特異な瓜人的小宇宙に馴染んでくると、一句一句の居場所がわかって、心地よさが増す。


   漢字とひらがな  型への執着

 瓜人の俳句における形式上の特徴としてすぐに指摘できるのは、漢語および漢文的措辞の多さであろう。調べないと読めない語、意味のわからない語もしばしば出てくる。ただし、殊更に難渋な表現を好んでいるわけではないし、読み手を恫喝するように使っているわけでもない。その種の表現を使うことで生まれる、ぴたっと決まった感じが、彼にとって好ましいのであり、実際、効果をあげている。多用される漢語は、句の字面と読みを硬質なものとし、リズムを引き締めている。また語自体への執着が強く、熟語を分解して読ませたり、新たな熟語をこしらえたりということも多い。対句的表現や似た語を重ねる表現もよく使う。

  梅天に次いで梅地も褪せ了る       (昭和三一年)   
  蠅頭(ようとう)を掲げて急ぐ一蟻あり   (昭和三五年)   
  蝉吟が蝉咽にこそ変りたれ        (昭和五六年)   

 一句目、梅雨が明けて天地がからっとしてゆく様。造語の梅地を梅天と呼応させた。二句目、「蠅頭」「一蟻」の表記と音に緊張感がある。三句目には、「先生の訃」と前書がある(この件は先述)。「蝉吟」「蝉咽」の四字八音に重苦しく悲痛な気持ちが凝縮されている。「蝉咽」はほかで見ないが、「蝉吟」と対比することで無理なく読める。また特にN音の重なりが、この句を印象的なものにしている。
 漢語の多用自体は、例えば江戸初期の貞門派を引き合いに出すまでもなく、ほかの俳人にも見られるが、瓜人の場合、技の加減がよく、遊びと真剣をうまく配合して、無理や不自由を感じさせないあたりが、才であり工夫なのだろう。
 漢字・漢語を多用する一方で、ひらがなや大和言葉の使用にも工夫があるし、その量も少ないわけではない。彼の作品においては、ひらがなや大和言葉が、漢字、漢語がもたらす凝縮性とバランスをとって、一句中に要素を盛り込みすぎないようにするはたらきをしばしば担っている。例えば、先の「蝉吟が蝉咽にこそ変りたれ」で見れば、下半分はひらがなを中心としてさらっと作られている。
 ひらがな語の中では、助詞、助動詞といった付属語の使い方に明確な特徴が見られる。彼は含みをもたせる表現が実に巧みで、「も」「また」等で複数のものに触れる言い方、「む」「らむ」「なり」「き」「べし」等の助動詞で和らげたり、強めたりする言い方を多く使う。係り結びの使用も目立つ。先に述べた「ず」の多用も、こうした技法の一種だと言える。さらに使役や受身の助動詞の頻度も高い。これら付属語は句意を確かなものにし、ニュアンスをもたらすもので、これらを自在に使うことで、彼らしいスタイルを作り上げている。その具体的な例は、既に挙げた句を改めて見ていただければ十分だろう。彼の句を続けて読んでいると、高校教科書の古文や漢文を読んでいるような気がすることがある。それだけ古典的、規範的な表現が意識されているということで、近現代の俳人にはあまり見られない傾向である。
 ここで、漢文訓読文のような句が多いことに連動する特徴として、名詞で終わる句(体言止めの句)がごく少ないことを指摘したい。体言止めの句は、おおよそ一割程度である。全句集をぺらぺらとめくってみていただきたい。ほとんどの句の一番下にひらがながくる(その多くは動詞語尾か助動詞)。芭蕉の句は六割以上が体言で終わる。近代以降の俳句ではそこまで多くないが、秋桜子ではほぼ半分が体言止めだ。瓜人における体言止めの少なさは並はずれている。
 細かくいうと、『微茫集』前半の「黄茅抄」ではやや多く、二割五分程度であるが、後半の「白葦抄」以降、一割内外となる。こうした体言止めの少なさは、一句の中で言葉が充足していることを反映していると考えられる。彼の句はおおよそ一物仕立てであるが、漢語と大和言葉の組み合わせであやを尽くして、韻文でありつつ、散文としても整っているような表現を生み出しているのである。
 このことと関連して、瓜人には、上五や中七で切れる句が少ないし、切れ字の「や」も少ない。字余り、句またがりはほとんど絶無である。最初に引いた「朝ぐもり海岸日傘ひとつひらく」は字余りだが、この字余りが散見するのも若き日の作を収めた「黄茅抄」ならではのこと。自己のスタイルを確立した後の瓜人は五七五という型に際だって厳格である。順序としては、五七五という型を遵守しつつ表現を豊かにする工夫として、漢文訓読風ないし古文風の句が生まれたという事情もありそうだ。
 以上のような次第で、瓜人の句はすっと読めて、きれいに終わる。そして、それが句集では次々に連ねられるのだが、句末に同じものが続いて単調になったりしないのに感心する。「なり」「あり」「けり」「き」といった強い調子の結びが多いように感じるが、そうした言い切りの加減が、うまくコントロールされているので、気持ちよく読める。
 なお彼の句に見られる型のひとつとして、先人の文章の引用、参照がある。俳人、詩人、日中の古典籍から、それとわかる形でしばしば引かれる。わかりやすいものの例として、虚子、子規の句に基づくものを紹介しておく。

  黄金蟲擲つ法に遵へり         (昭和四一年)   
  曼珠沙華十四五本も生けたらむ   (昭和四七年)   


   抑制と豊饒

 形式、内容に関する瓜人作品の特徴について、あれこれ述べてきたが、それらを大本で支える彼の作句姿勢の本質に「抑制」がある。
 先述のとおり、彼の句には、基本的に前書、注釈がなく、俳句本体以外のもので読み手を縛ることをしない。ただ句が時の流れに沿って放り出されている。また隠者的生活の中、扱う句材は身辺の比較的、限られたもので、あちこち出かけたりということもほとんどない。五七五の型についての厳しさといったら、他に例を見ないほどで、五七五原理主義とでも言いたいほどである。
 しかし、不思議なことに、一貫してストイックな彼の姿勢が独特の諧謔味に満ちた豊かな世界を作り出すのだ。いや、俳句というのが、そもそもストイックなところで成立している芸であるのだが、それに非常に自覚的であったのが、瓜人だと言えるのだろう。
 ここで彼が自作に与えた註について軽く触れたい。例えば、先に引いた「黄金蟲擲つ法に遵へり」について、「「金亀子擲つ闇の深さかな」以来俳人には黄金虫を擲つ定めがある。作者もそれに遵っただけである。黄金虫も俳人の家は敬遠すべきである。」と書いていて、笑いを誘う。「年の夜の聞くに堪へざる鄭声や」の自註では、先に引用したように「末世」と相当きついことを書いている。自註を読んでいると、まじめなのか冗談なのか定かでない部分も含め、自身の内面にある過剰や過激さを抑えに抑えて、五七五に造形しているのだということがよくわかる。


   負暄 − 寂しき愉悦

 瓜人を象徴する言葉をひとつだけ挙げるならば、第三句集のタイトルにもなっている「負暄」だろう。暄はあたたかいという意味。「暄を負う」で日向ぼっこのこと。自ら書き残した法名にもこの「負暄」を入れたくらいに深い愛着をもっていた言葉であるので、作品鑑賞のしめくくりという意味もこめて項を独立させて書く。
 負暄、日向ぼっこの句をいくつか引く。

  前世にも日向ぼこりに飽かざりし    (昭和四九年)   
  混沌となるまで暄を負はむとす     (昭和五一年)   
  つひにゆくみちのほとりのひなたぼこ (昭和五六年)   
  老身の解け終るべき負暄かな     (昭和五八年)   

 いずれも瓜人の代表句といってよいものだと思う。そして、これまで触れたような彼の作品の特徴がよく出ている。
 形式的には、まず「負暄」や「暄を負う」という表現に見られる漢語、漢文趣味が彼らしい。四句目が全部ひらがな書きなのは珍しいが、日向ぼっこの気分がよくでている。「ず」「も」「む」「べき」等も、彼の表現の名脇役。
 内容からみると、いずれも詠んでいるのは自分のことである。また前世から今を経て来世に至るような、長い茫漠とした時間の感覚が特徴的。人生という仮の宿りの中で日向ぼっこを続け、身も心もとけてゆくような愉悦境。ただし、老いの身のそれは、明るいながらも寂しさがともなう。


   おわりに − 寄せては返す

 全句集の三一八四句を読むと、似た句も少なくない。発想にしても、言い回しにしても、しばしば既視感を覚える。
  『明治草』の後記に、「毎年季節の推移や身近な草木鳥虫共の動勢を繰返し詠み続けて来たのだから、どの年の作品も殆ど軌を一にしてゐる」と書いているが、その通りと言えば、その通りだ。しかし、この「軌を一にしている」ことは彼の俳句世界の根幹に関わることであり、それをなぞることで彼の句の理解が深まる。瓜人の俳句は年次のレベルでもまた定型的である。もっと一般的に生活自体定型的なのだ。
 ここで思い出すのは山本夏彦の文章のことである。彼もまた、変わらぬ内容の文章を繰り返し繰り返し、倦まず書き続けた。ある人が、夏彦の文章を擁護して「寄せては返す波の音だと思え」と言ったという。瓜人の全句集を読んで、まさしく「寄せては返す波の音のようだ」と思った。繰り返しがもたらす愉しさは、瓜人俳句の本質のひとつである。
 彼の日常においては、繰り返しが行くところまで行ってしまっているので、例えば次のような具合になる。

  片食(かたばみ)と戦ふことに倦んじけり  (昭和三七年)   
  入梅と云ふ日の雨に先づ厭きぬ      (昭和四五年)   

 この「倦ん」だり「厭き」たり、というのは、彼の句でしばしば出てくるキーワードである。虫や梅雨は、もううんざりだと自覚しつつ繰り返すところに彼の本領がある。
  『現代俳句辞典、第二版』(富士見書房)の相生垣瓜人の項で、能村登四郎は「瓜人俳句は独自の句境があり、強烈な支持者をもっている」と記している。私自身は、今なお強烈な支持者の境地には至っていないが、そのような人がいることは理解できる。読み進め、読み重ねるにしたがって、瓜人スパイラルのようなものにはまってゆくのだろう。
 今回、瓜人の作品を多量に何度も読むことで、私の脳もまた、瓜人的なリズムやサイクルにかなり同期・共鳴できるようになった。そして、これがもうひとつ興味深いことだが、瓜人の句のおもしろさは、他のタイプの句のおもしろさとあまりバッティングしないらしい。瓜人には瓜人の領分というのがあって、そのニッチを保っているのだな、ということを実感した。否、瓜人的なニッチがわかると、ほかの様々な句がよりくっきりと読めるように思う。彼ならではの「地味で変で徹底してストイックな句」の功徳であろう。