<句集評>
三つの視点
―『不稀』を読むー
筑紫 磐井 (「豈」同人)
○何故「不稀」なのか―――反逆の人
有馬朗人氏の句集を見ると、『論語』(為政第二)に由来する題名が多い。第二句集『知命』は五十歳を意味し、第四句集『耳順』は六十歳を意味し順当な命名だが、第五句集の『立志』(十五歳を意味する志学の意味を転換している)、本句集『不稀』(七十歳を意味する「古稀」を否定している。因みに論語で七十は「従心」)となると天命に従う『論語』の世界に反発するような題名が目立ってくる。これはおもしろいことだ。
水鉄砲古稀となりても面白く
着ぶくれて円熟にほど遠くをり
この二句は、標題となった「不稀」にも通う意味を持っている。前句が古稀となっても童心や好奇心を肯定しており(古稀に対する作者の肉体的な反発)、後の句が古稀という呼び方自身に不満な作者の心境(従って「不稀」と名付けた、作者の心理的反発)を語っているようだ。
念のためにこのエピソードの科学的根拠を言えば、最近たびたび、俳句や科学の会合で話されているのだが、人間の細胞のアポトーシス(あらかじめプログラムされた細胞死のこと)のプログラムで、人間は百二十歳まで生きられるはずというのを確認した、だから年齢的には七十歳(古稀)を超えたのだが、古稀とは言いたくないと言う理由なのだそうだ。“古稀という言葉は百歳までとっておきたい”は、いい言葉である。
話は飛ぶが、私が「俳句界」という雑誌の依頼を受けて山の上ホテルの一室で有馬朗人氏にインタビューをしたことがある。ちょうど参議院議員に就任される直前ではなかったかと思う。その記事が印刷されたときには既に文部大臣に就任されていた。編集部としては最もよい時期のインタビュー記事であり、あの雑誌にしては珍しく売れたのではないかと思う。このとき有馬氏の初学時代の話を伺うと、―――あるいは「天為」の同人ならよく知っていることなのかもしれないが、―――若い時期に一番影響を受け関心を持った作家が西東三鬼だったと聞いて驚いた記憶がある。確かに評論集『現代俳句の一飛跡』を見ると、昭和三十一年に書かれた「三鬼論覚書―――詩は歓びに始って知慧に終る」が載っており、この力作は有馬氏が最も早く書かれた評論の一つであるだけに三鬼が朗人俳句に何らかの強い影響を与えた事を推測させてくれるものである。それにしても、「夏草」にあって三鬼に関心を持つという初学時代のありようは、かなり反逆的ではなかろうか。事実、インタビューで、自分は五十歳まで、科学でも俳句でも反逆的だったと述べている。
転機は五十歳になってから、当時入会を勧められた「塔の会」のメンバーとつきあうことによって「形」の大事さを学んだと述べられている。もちろん、その言葉に嘘はないだろうが、では本当に反逆心は収まったのだろうか。上に述べた六十代以降の句集の命名の心理は、五十歳以前の反逆心と通うものを感じないでもない。決して世の中の常識に納まりきってしまわないところが、深い心理のうちにはあるのだろう。
終生、反逆心を蔵しつづけているのが有馬朗人という科学者であり俳人ではないのだろうか。
実はこの鑑賞を書いている最中、本年度の加藤郁乎賞の受賞を知った。加藤郁乎は、戦後、高柳重信、赤尾兜子、安井浩司と並ぶ全く新しい言語活動を俳句に導入したスターであった。中でも郁乎は詩人としても著名であったが、この郁乎が個人的に顕彰する賞として設けたのが加藤郁乎賞であった。党派に偏ることなく、辻井喬(堤清二)、辻桃子、復本一郎など、個性的な作家や評論家を顕彰してきたのだ。ふたりほぼ同年の生まれ、キャリアも長ければ俳句以外の見識の深さも相当なもの。しかし片やホトトギス系の「夏草」、片や新興俳句系の「俳句評論」でデビューした、好敵手と言ってもよいだろう。その二人が、授賞・受賞の関係となるのは誠に面白い。授けるほうも授けるほうなら、受けるほうも受けるほう、ともに剛毅な性格が見て取れる。恐らく、有馬朗人氏を選ぶということはそれだけ有馬氏の持つ反逆心が郁乎にかなうものであったに違いないと推測するのである。
○教養主義の系譜―――青邨と共通するもの
こんなことを書いていると、有馬氏の特異な点ばかりを書き連ねることにもなりかねない。実は、有馬氏の特徴はむしろ青邨から継いだ教養主義をまずあげなければならないのだ。教養主義ということは最近余りよく取られない。かつて「俳句研究」の連載書評で有馬氏の『立志』を取り上げてその教養主義を賞賛したところ、飯島耕一・福田和也らが他誌で行っていた時評座談会で散々にたたかれた記憶がある。しかし最近になって、教養を忘れたところに現代の問題も出てきているような気がますますするのである。大学で教養学部が廃止された頃から大学の学生の質の低下が見え出してきた。現在もっとも必要な人材は、教養ある研究者、教養ある行政官、教養ある政治家だろう。どんな優れた研究者であっても若くから培われた教養の下地がないと間違った道を歩みかねない。科学者である有馬氏が俳句を詠むこと自体、教養の匂いがする。誤解のないように言えば、前述のインタビューで有馬氏は、師の青邨を教養主義と言いつつも、「彼はプロでしたね。決してアマチュア俳句じゃなかった」と断言していることだ。「赤門をくぐったら俳句を忘れろ」という青邨の言葉は、自分の本業に絶対的責任を持てということなのだ、そして本業であれ、俳句であれ最善を尽くすことが教養主義の真骨頂なのだ。有馬氏の生きかた、業績は、正に青邨譲りの教養主義と言ってよいだろう。
そんな教養を踏まえて詠まれた俳句を眺めて見よう。
紫陽花やおたきは遠しいねも又
この句は、紫陽花が好きだったシーボルトが、日本の愛人の楠本滝(おたき)の名前を学名に入れたという伝説に基づいている(いねは二人の間に出来た娘の名前)。
実際シーボルト著『日本植物誌』(一八三五年)の中で、紫陽花を「ハイドランジア・オタクサ」(ハイドランジアは「水の容器」の意味)と命名しているそうだ。いずれにしても、彼はいわゆるシーボルト事件(日本地図国外持ち出し事件)で国外追放されてしまい、おたきを遠く思い、娘いねも文をやりとりするしか手段がなくなってしまったということである。愛妻を、「オタキサン」と呼んだシーボルトの心情が伝わってくるようだ。この句を見ると、ただちに朗人俳句の俳句の作られ方、青邨にもかよう教養的な発想がよくうかがわれる。ただ、楽屋落ち風に言うと、現在の紫陽花の学名は、シーボルトに先駆けて別の人が「ハイドランジア・マクロフィア」と名付けたため現在こちらが正式学名となっているそうで、せっかくの美談なのにいささか残念な気がする(マクロフィアは「大きい葉」というやや殺風景な命名)。シーボルトが国外追放を受けて妻子と離ればなれになったのは間違いないが、彼は幕末にはまた日本に戻ってきている。彼の日本とのこんな縁で息子たちは明治になってから日本へやってきて、外交官や日本の公務員として働いたと言われている(ということはおたき・おいね以外に彼の地に別の妻と子がいたと言うことだ!)。
さくらんぼヨセフにねだるマリアかな
アダムに林檎をねだったのはイヴだが、マリアがヨセフにサクランボをねだったのは知らなかった。もちろんこんな事実は聖書には書いてないが、イギリスには、身ごもったマリアがヨセフにサクランボをねだると、拒んだヨセフに代わって桜の木がたわんでマリアのサクランボを食べられる位置まで下がってくれた、という伝説があるそうだ。俳句はちょっと複雑なヨセフの心理は省略して、美しいマリアの姿だけを残している。いかにもそれらしく納得できるところが、西洋的な教養を身につけている作者の強みであるだろう。林檎が原罪につながるとしたらサクランボは何なのか、小さいだけに罪悪感よりはさわやかないたずらのようなものも感じられる。ひらがな、カタカナ、ひらがな、カタカナと連続していくリズム感が楽しく読まれる。
天狼やアインシュタインの世紀果つ
科学者としての教養をよく示すのがこの句であろう。二十世紀を「アインシュタインの世紀」と唱えるのは科学者以外思いつかない比喩だ。しかし、これは何ら誇張ではない。アインシュタインの「特殊相対性理論」の発表された一九〇五年から百年経った今年を国連は「国際物理年」と決定し、世界中で盛大な行事を行うこととした。
世界がこの百年をアインシュタインの世紀として認めたのだ。最近しばしば俳句の予言的性格について言及している有馬氏らしい句となった。
面白いエピソードがある。師の山口青邨は若き時代石原純と「玄土」という文芸雑誌を出している。石原純は歌人であるとともに東北大学の物理学の教授(何と有馬氏と似ていることか!)で、当時難解な「特殊相対性理論」を日本でただ一人理解できる人とされていた。そしてその「国際物理年」の日本の実行委員長を、いま物理学者有馬朗人氏が務めているのである。感慨がないはずがない。
因みに何故、天狼(シリウス)なのか。シリウスは、エジプトでナイル川の氾濫の時期(八月シリウスが日の出直前に東から昇る時期に符合する)を予測する観測手段となった星であり、文明の始まりを思い起こさせる星なのだ。未来志向(どうも優れた物理学者はみな未来志向であるようだ)の有馬氏らしいメッセージとなっている。
○新たなたくらみ―――海外俳句から得たもの
有馬氏の反逆的な一面と、教養主義的な一面を紹介したが、実はこの句集には新しいたくらみがこめられているようなのである。海外詠の多い作家なのに、今回は意外なことに海外詠が全くない。『不稀』のあとがきを読むと、国内吟と外国詠を一冊にすると飛びまわるのでわずらわしいからという理由で、すべて省いたとある。もっともな考え方であるが、逆に国際俳句や海外詠が日本固有の俳句にどういう影響を与えたかを知るにはまことに格好の句集となった。
以下にその特徴となるような句を掲げて見たが、読者はこれらの作品に俳句の骨法がよく現れているのにすぐ気付くはずだ。それは海外の詩人との交流や、海外詠の制作の中で、よく考えられ、反芻され、血肉化した上で作られた俳句であることに注意したい。掲出句をただ単に純粋に日本的な俳句だと思う人は、国際俳句の影響とは、それが句の上に現れるだけでなく、海外の俳句や詩があるということを意識しながら詠むだけでも俳句の質が変わってくるものだと言うことを改めて知ってほしい。日本人が見えなかったものを外国の視点に置くことによって見えてくる新しさは、伝統的伝承的な世界の新しさにとどまらない価値を持ってくるはずである。本当の伝統の刷新は、そうした外部の触発によって生まれた内部の必然性からこそ生まれる。『不稀』はそんなことも教えようとしているのだ。
手につつむ伊予の山なる冬菫
夏休み来る真青な時刻表
朧夜の消しゴムで消す我が名かな
生涯にこの一音を朴落葉
浅草の赤たつぷりとかき氷
戸を閉めることを子猫に教へむと
魂の不意に入りたる傀儡かな
あればつい何でもたたく蠅叩
頁の都合で一部について簡単な感想を述べるにとどめよう。
「手につつむ」は「春なれや名もなき山の薄霞」「山路来て何やらゆかし菫草」などの芭蕉の句を思い出す、まだ冬の春寒さが残っているだけに「手につつむ」も実感であるし、伊予という地名も懐かしさを感じさせ、ぴったりと収まった句となっている。にもかかわらず、明治時代の多くの近代の巨人がここから生まれたという意外性をやさしく受け止めてくれる句である。
「生涯に」は、素十に有名な回り燈籠の句があった(生涯にまはり燈籠の句一つ)が、素十が視覚であればこちらは聴覚の感慨だろう。一方、一音の朴落葉は桐一葉のような趣もある(虚子の、桐一葉日当たりながら落ちにけり)。芭蕉は「季節の一つも探り出したらんは、後世によき賜」と言っているが、何となくそうした言葉への共感を感じる。人間の一生にかけがえのないものが実は些細なものであるというのは感動的な発見である。
「戸を閉める」は、とても子猫が出てゆくときに戸を閉めるようになるとは思えないが、「教へむと」には俳句特有のゆとりとレトリックがあるようで楽しい。
「魂の」は、それまで本当に人形であった傀儡人形が、人形師の手にかかって突然魂が入ったように、生き物のようになって演技を始めるという劇的な瞬間だ。「入魂」を描くとすればぴったりの情景である。西洋人形では決してないが、浄瑠璃かと言えば傀儡と呼ばなくもないものの、どちらかといえば古風な田舎浄瑠璃の方が似合いそうにも思う。いずれにしても人形遣いが舞台の表に立ち、見る人がそれを意識の上から消すという処理を行う世界に類を見ない不思議な舞台芸術の特徴をよく語っている。
「あればつい」からは虚子を思い出す。虚子は晩年定期的に神野寺を訪れていたが、行くたびに蠅叩きの句を作っていた。蠅叩きがあれば句が出来るというのも、不思議な俳句作法だ。蠅叩きが虚子にとってはよほど面白かった季題であったに違いない。しかし、そんな作りかたが出来ると言うことも俳句の魅力の一つなのである。季題趣味がいい意味でも悪い意味でも、俳句の特性を語ることになるのだ。
人間を描くのに立派な業績をあげる方法もあるだろうが、些細なエピソードの積み重ねのほうが読者に強い印象を残すこともある。日頃親しくさせていただいている有馬氏にはいまさら業績を上げるよりは、些細なエピソードからはじめたほうが書きやすいし、読者にも読みやすいかもしれないと思ってこんな形で書き上げて見た。私にとっての初めての有馬朗人論であり、『不稀』にとどまらず、広い意味での有馬朗人論になっていれば幸いである。