<句集評>

    有馬朗人句集『不稀』評

       典故と軽みと  

日原  傳  

 

 

 有馬朗人先生の既刊句集は『母国』『知命』『天為』『耳順』『立志』の五冊。『不稀』は第六句集に当たる。一九九六年から二〇〇〇年までの作品四百二十四句を年ごとに五章に分けて収めている。原則として国内吟のみで句集を構成しており、その点が既刊の五句集と大いに異なっている。この期間にも当然多数の海外吟が詠まれている訳だが、「あとがき」に従えば、それらは別の形で纏められることになるようである。国内吟だけに絞ったということは当然、本句集の性格にも大きな影響を及ぼしていることであろう。

  『不稀』を読みすすめながら評者がまず感じたのは、「典故」の問題である。一句のなかで使用される単語のレベル、あるいは句に詠まれた世界全体のレベルといった性格の違いはあるものの古典の故事を踏まえた句が多数収められていることが指摘できる。勿論「典故」の使用は既刊句集のなかにおいても一つの系譜をなしていた訳だが、近年講演等で日本各地を旅行される機会が増えたこと、それに加えて国内吟に絞ったことでそれがより顕在化したのではなかろうか。「典故」という技法は作品の世界を重層化させ深める働きを有する一方で、作品を難解な方向に導く危険性も併せもつ訳だが、『不稀』にはその諸刃の剣に敢えて挑んだ作品が数多く収められていると言えよう。

 

  若の浦に潮満ち来たる初日かな

  初日影玲瓏として玉津島

  若潮や海神の手の片男波

  初詣玉藻刈りゐし乙女ならむ

 

 句集の巻頭に置かれた四句である。「若の浦(和歌の浦)」は歌枕。現在の和歌山市の南にある湾岸一帯の地に当たるという。若の浦にあった「玉津島」も歌枕であり、玉津島神社が残る。その祭神は古来和歌の神として尊崇され、若の浦も歌道の聖地に位置づけられた。慈円、寂蓮、西行らも訪れたことが知られている。芭蕉も吉野、高野から山路をたどって和歌の浦を訪れており、「笈の小文」のなかに「行春にわかの浦にて追付たり」の句を残している。

 さて、掲出の四句が基づいているのは、神亀元年(七二四年)聖武天皇が紀伊の国に行幸した時に同行した山部赤人が詠んだとされる長歌と反歌二首の世界である。作品は『万葉集』巻六に収める。一句目は反歌の二首目「若の浦に潮満ち来れば潟を無み葦辺をさして鶴鳴きわたる」を踏まえている。初日の出を拝みながら赤人の歌の世界を追体験しているのである。三句目の「片男波」はこの歌の「潟を無み」から生まれた言葉という。潮が満ちくる時の「高い波」を指す場合もあり、また一方で和歌の浦にある砂嘴を意味する地名ともなっている。二句目、四句目は赤人の長歌の世界を背景とする。長歌の後半部には「風吹けば 白波騒き 潮干れば 玉藻刈りつつ 神代より しかぞ貴き 玉津島山」という一節が見られ、二句目、四句目ではそれらを踏まえた用語が用いられている。特に四句目は、現実には初詣において着飾った若い女性を目にしたのが発想の契機であったと推測されるのだが、思いは一気に玉藻を刈る古代の乙女の世界へ向かっている。この巻頭の四句の世界は、ある場合には古代と現代とを行き来し、ある場合には両者を二重写しにした力のこもった連作なのである。

 

  海月なす漂ふ国の走り梅雨

 

 上五中七の表現は『古事記』の冒頭の一節を踏まえている。世界のはじまりに神々が出現したことを説くに当たって、『古事記』では国の形態を「国稚く、浮かべる脂の如くして水母なす漂へる時に」と説明している。掲出句の読みは大きく二通りに分かれるのではなかろうか。神話の世界に一気に身を委ねて「海月なす漂ふ」という浮遊感を楽しむ方向の解釈も可能だろう。一方、もっと現実に引き寄せて迷走する現代日本の政治や社会を古典の表現を借りて皮肉ったという解釈も成り立つだろう。

 

  杜甫の詩の風流儒雅と読み始む

  杜甫の鳥逾白しと書初す

 

  『不稀』全体を概観すると、中国の歴史上の人物としては「王羲之」「杜甫」「顔回」「竹林の七賢」が詠まれている。神話の世界からは「羿」「混沌」「嫦娥」が加わる。

 掲出句は「読初」「書初」を杜甫の作品で始めたことを述べたもの。二句目は「江碧鳥逾白/山青花欲燃(江碧にして鳥逾白く/山青くして花燃えんと欲す)」と始まる杜甫の五絶「絶句」が素材。この作品は『唐詩選』にも取られているから一般読者にも分かりやすいであろう。

 一句目の踏まえる世界はそれに比べてやや難しい。「風流儒雅」は、風流にして学者らしくみやびやかなこと。直接には戦国時代の楚の作家である宋玉の人となりを言う。出典は七律五首からなる「詠懐古跡」の其二。大暦元年(七六六年)頃の作と推定されている。ちなみに杜甫は大暦五年(七七〇年)に数えの五十九で亡くなっているので、晩年近くの作と言うことが出来よう。永泰元年(七六五年)五月に草堂を捨てて成都を去った杜甫は病気のため雲安の町で半年ほどの逗留を余儀なくされる。ふたたび舟をやとって雲安の下流の●州(きしゅう)に着いたのは大暦元年春の末。●州(きしゅう)にも結局約二年間滞在することになるが、杜甫の詩作の大きな転機と位置づけられる有名な「秋興」八首をはじめ沢山の詩をこの地で作っている。「詠懐古跡」はこの地方の古跡を素材に先人への思いを詠んだ連作。言及する先人は一首ごとに順に庾信、宋玉、王昭君、劉備、諸葛孔明の五人。其二は「揺落深知宋玉悲/風流儒雅亦吾師(揺落 深く知る宋玉の悲しみ/風流儒雅 亦た吾が師なり)」と歌い起こされている。掲出句は、宋玉を慕う「詩聖」杜甫の晩年近くの重厚な詩を読初めとしたという意味になる。第二句集『知命』に「創世記花文字もつて読初む」という「読初」の句があったことを思うと感慨深いものがある。

 

  水晶の稜の正しき青邨忌

  伯林に都が戻り青邨忌

 

  『不稀』にはたくさんの人名が登場する。それは朗人先生の興味の幅の広さを物語るものでもある。日本人に限っても「子規」「青邨」「寅彦」「実朝」「鬼貫」「鳥羽僧正」「聖武」「家康」「円仁」「道鏡」「卑彌呼」「荷風」「漱石」「虚子」「一休」の名が見える。

 青邨忌は十二月十五日。一句目の「稜」は「かど」と読ませるのであろう。数学用語では、多面体の隣りあった二つの面が交わってなす直線をいう。「水晶の稜」は青邨先生の清廉な人柄を象徴するものとしてよく働いている。二句目は時事をうまく俳句に定着させた作品。青邨先生は選鉱学研究のため昭和十二年(一九三七年)から二年間ベルリン工科大学に留学されている。『滞独随筆』『伯林留学日記』という著書もある。ご逝去は昭和六十三年(一九八八年)。第二次世界大戦後に東西に分裂したドイツが再び統一されたのは一九九〇年十月三日。一九九一年の連邦議会のベルリン移転決議や一九九四年のベルリン・ボン法の成立を経て首都機能が正式にベルリンに移転するのは一九九九年九月のこと。その間の報道を耳にしてベルリンに深い思い入れをお持ちであろう青邨先生に心を寄せたのである。

 

  一汁は伯耆の国の大蜆

  長崎の坂動きだす三日かな

  浅草の赤たつぷりとかき氷

 

  『不稀』のなかにはおびただしい数の地名が詠みこまれている。漏れがあるかもしれないがざっと挙げると「伯耆」「五箇山」「長崎」「那の津」「奈良山」「如意の渡」「能登」「射水川」「比良比叡」「月山」「引佐細江」「武甲山」「越の国」「越中」「浅草」「甲子園」「島原」「出雲」「湯布院」「大和」「鎌倉」「出島」「三毳の山」「浦上」「天草」「君ヶ浜」「加波筑波」「山の辺の道」「二上山」「甲斐」「六道の辻」「恐山」「東山」「丹波」「逢坂」「沖縄」「三河」「阿蘇」「白河」「南京町」「相模」といった具合である。東奔西走される朗人先生の活動の激しさがうかがわれる。 

 一句目の「伯耆」は現在の鳥取県西部に当たる旧国名。その「伯耆」という地名がどっしりと据わった一句。「春の野を持上げて伯耆大山を 森澄雄」も忘れられない名句だが、掲出句も一読してゆったりとした豊かな気分に導かれる。「一汁」「伯耆の国」「大蜆」といった言葉が一句のなかの納まるべきところにきっちりおさまったこころよさがある。

  「長崎」の句に関しては、言葉の斡旋の巧みさを思う。長崎は言うまでもなく坂の町である。その意味では「長崎の坂」までは常識的な表現かもしれない。しかしその後に「動きだす」と続くと読み手のなかのイメージは急に活きいきとしたものになってくる。実際には「長崎の町」あるいは「長崎の町に暮らす人々」が動きだす訳であろうが、「長崎の坂動きだす」という飛躍を含んだ表現は詩的なイメージを喚起する効果をもたらしている。その上に立って句は「三日かな」という王道とも言うべきどっしりとした着地点を得た。正月の季語がよく据わった大きな句に仕上がっている。

  「浅草」の句は、「浅草の」という上五を枕詞のように使った面白さがある。ア音の響きあいを生かしているのは勿論だが、「浅草の赤」と言った瞬間、かき氷のシロップのどぎつい色や庶民性を大事にする浅草の町の雰囲気が一気に句の中に充満してくる思いがする。

 

  初めての冬眠に入る亀の子よ

  水牛にやはらかきむち朝曇

 

  『不稀』のなかには動物を詠みこんだ句が散見する。かつては「牛も走る枯野に夜が迫る時」(『母国』)や「寒鴉犬の屍を食ふ飛鳥村」(『知命』)のように急かされるような不安感や生死の現実を見つめる厳しい句も詠まれていたが、『不稀』に登場する動物に注がれる眼差しはおおむね慈愛に満ちたものである。

 一句目は「冬眠」という未知の世界へ踏み込んでゆく亀の子を思いやる心を率直に吐露した作。「冬眠」にかかる「初めての」という措辞に思いがこもる。

 二句目は前後の配列から沖縄での作かと推測される。農夫と水牛の農耕作業のさまを詠んだものであろう。両者の心の交流を「やはらかきむち」という描写で言いとめている。これらの句には「典故」の句とは違い、肩の力を抜いた軽やかさがある。

 

  ビッグバンの残光にして初日影

  天狼やアインシュタインの世紀果つ

 

 自然科学に関する用語や固有名詞を俳句に用いて成功した例である。初日を仰ぎながらこれはビッグバンの残光であるなどと考えるのは自然科学者の眼差しを持ち続けていないと不可能であろう。去りゆく二十世紀を概括する句は当時よく詠まれたが、「アインシュタインの世紀果つ」という把握は物理学者ならではの感慨であろう。天狼星は大犬座の首星。全天で最も強い青白色を放つ。冬空に仰ぐ天狼星の輝きはアインシュタインを象徴する光にも見えてくるのである。