岩田諒句集『存在乃家U』
(2006年3月 岩波出版サービスセンター)
「存在乃家U」は岩田諒さんの第二句集であり、
第一句集「存在乃家T」に続くものである。諒さ
んは東京大学で哲学を学んだ。この二つの句集
名を「存在乃家」としたところに諒さんの哲学への
志向がきっぱりと示されている。諒さんは存在感
を持つ俳句を作ることに、努力している。
(有馬朗人 序 より)
この世界を在らしめている「存在」、隠れていて
目には見えない根拠、それを求めることが、私の
生であり、また、私の作句である。
「俳句」という形によって「存在」を探求する以上、
「俳句」の何であるかを知っていなければならない。
第二句集を纏めて、少しは視界が開けたような気
もする。また新たに、「存在」の探求に励みたい。
(著者 あとがき より)
<句集評>
岩田諒句集『存在の家U』
ー この世を越えたい ー
津久井紀代
初蝶と見れば二の蝶三の蝶
目前に二つ三つと舞う蝶、この世のものとも思えない美しさ、しかし現実。初蝶のういういしさは諒さんの心の透明感であり、やわらかさは心の襞の深さによるものである。二の蝶、三の蝶の畳みかける手法が手柄。それによって弾むような心と、初蝶の喜びがいっぱいに表出されている。そして「見れば」がこの句のキーポイントなのである。蝶ではないのである。この世に生まれたての「初蝶」を強調したもの。初蝶の存在を余すところなく発揮できた。諒さんの手によって初蝶はすでに一句の中でこの世を越えている。それは初蝶の美しさを描き切ったためであり、初蝶は諒さんと同化しているためである。
『存在の家U』の最大の特徴は「平凡な現実」を掬い取り、描き切ることにある。そこから見えてくるものが諒俳句と言えよう。
第一句集『存在の家』においては諒俳句の言語感覚はむしろ平凡を嫌うことから発せられていた。
例えば
死ねば硬し金魚も小さき弟も 第一句集
棺入れて車体の沈む秋桜 〃
だんまりの鴉冬芽がひしひしと 〃
口割らぬ石榴と将校用長靴 〃
かなしみとは人の形す鳥兜 〃
今なお人の記憶に鮮しい作品群。「死ねば硬し」の非常とも思える発信。「棺を入れて沈む車体」の不気味さ、「だんまりの鴉」の不安、「口割らぬ石榴と将校用長靴」の日本の暗部への警告、諒さんの「何かに会いたい」気持がこれらの多くの言葉を生んだ。西脇や塚本がかつて抱いた現代人のもつ不安に通じるところがあった。それは即物的で不気味であった。この不気味さこそが諒俳句の目差すところであった。
カタコンベ出てあの世めく春日かな
かげろふ立つ兵征き学徒行きし道
白蝶々ピエタばかりを見たる日に
ローマでの作。諒俳句の言語感覚に大きな変化があったことがあきらかである。「何かに会いたい」という叫びから自由になったのである。自由に空気が吸えるようになったのである。その結果、諒俳句の不安や不気味さがとれ、自然体になったのである。「カタコンベ」「兵征き学徒行きし道」「ピエタ」、諒俳句の得意とする言語であるが、ここからは不安は消えている。すべてから自由である。そしてむしろおだやかとも言える「春日」であり、「かげろふ」であり、「白蝶々」である。カタコンベの暗さも、かげろふの靴音も、白蝶々のかなしみもすべて諒さんの心の深くでこの世を越えたと言っていいだろう。平凡を非凡に掬い上げたためである。
色彩感覚の面でも変化が起きている。師有馬朗人氏も
立ち上がる濤さみどりや廐出し
豆腐屋の白き湯捨つる余寒かな
を挙げ、「さみどり」、「白き湯」の色彩感覚を指摘している。かつて第一句集においては
水引の花真つ赤なる角度あり 第一句集
寒猿のくわうんくわうんと声朱し 〃
衰へを見せてはならぬ牡丹かな 〃
花は「牡丹」、色は「赤」とその目差すところがはっきりしていた。ここでも諒さんの心の変化を見てとることが出来る。
諒さんの変化の一つに客観写生がある。「俳句は現実を写し取るもの」が諒俳句の根本にあるのである。「よく物を見る」ということ、その上に成り立っている。よく物が見えるようになったのである。固さがとれたのである。万物に対し自然体で対話が出来るようになったのである。その結果平凡な現実、言葉、存在を掬い取ることが出来た。第二句集の大きな成果であろう。
春菊を買ひタゴールの詩集買ふ
集中こんな句を見つけた。諒さんの本当の素顔が表れている句ではないだろうか。句集の中にこんな句を見つけるとほっとするものである。東大出の哲学者などと言うとちょっと戸惑うところがあるが、諒さんは違う。素朴で礼節をわきまえた人。二度、三度とお会いするたびにその感は深くなる。小さな草があれば草にかがみ、対話をする。川があれば川の音に耳を傾ける。たとえれば木綿の肌ざわりのような人。
青々とした春菊を買う喜び、そして何よりタゴールの詩集が良い。そこが諒俳句。諒さんの自然体で素朴な日常が表れていてこの句集をより品格の高いものに仕立てあげている。
鯉老いて背骨曲れり藤の花
残雪の一片として家鴨伏す
新緑や腸ながながと駱駝病む
水馬足をあつめて跳ねにけり
五月晴どすんと象が糞りにけり
ピラニアが前歯で笑ふ新樹光
肚けろりかんと乾鮭吊られたり
第二句集に動物の句が目立った。集中三〇句は下らない。第一句集において前面に出した自分(個)は陰をひそめ、自らの命を写し取ることに動物の力を借りた。より対象がはっきり見えるからである。
一句目、鯉へのいたわりに焦点を当てた。そして老へのさみしさを藤の花へ託した。鯉は諒さん自身である。二句目、家鴨伏すさまを残雪と捉えた。「一片として」に命へのあわれが託された。三句目、「腸ながながと」にリアリティーがある。心が洗われるような新緑に切なさは救われた。四句目、「足をあつめて」に生き物へのまなざしがそそがれている。五句目、「どすんと」が上手い。五月晴が見事に生きた。六句目、「ピラニアが前歯で笑ふ」はよく物が見えていると感心する。おかしみとかなしみがある。七句目、乾鮭をけろりかんと言ってのけた諒さんに敬服する。
諒さんは己を守ることから自由になった。その結果見えて来たものがたくさんある。命である。命は透明感をもってあの世とこの世を自由自在に行き来出来る。人間の真こそ諒さんの目差すところであろう。
千本より帰路の一本桜かな
百千鳥染場に乾ぶ糸の屑
殺意あるごとく人力車夫日焼
『存在の家U』にはたくさんの良い句があった。諒さんの言うこの世を越えたいという思いは俳句の真を追求することであると確信した。
人間を止め棒稲架に並ばうか 第一句集
長き影引くなりわれと棒稲架と 第二句集
諒さんの追い求めていたものがはっきりと見えている。