十人十色2014年4月

   ねずみ取りも売られ築地の年の市★一色 月子  

 東京都中央区の南部で、隅田川河口右岸が築地である。魚市場や青物、食肉の市場が集結している。仕入れに行く人々、小買物をする人々で、いつも混み合い活気がある。買う目的でなくても早朝の糶を見たり、様々な旬の魚や野菜を見たりして楽しめる所である。特に年の市は大にぎわいである。私も時々、友人をさそったり、独りでぶらっと築地に行き、俳句を作る。思い掛けないものが見られて面白い。月子さんはねずみ取りまで売られていることを発見したのである。築地の年の市であるから、どんな珍しい魚や野菜があるかと、目を皿にして見ていたとき、ねずみ取りを見つけて驚き面白がっている気持ちがよく描かれている。年の市らしい華やぎを感じさせてくれる。

  初使者を初東風とするニライ神★太田 幸子  

 にらい・かないは沖縄や奄美地方で、海の彼方や海の底にあると信じられている楽土である。ニライとかニルヤとも呼ばれる。毎年そこから神々が人間の世へ訪れ、種々な豊饒繁栄をもたらすと信じられている。沖縄の八重山諸島では旧暦六月の豊年祭に、にらいかないから仮面をかぶった二神を迎える行事がある。この二神は赤また黒またと呼ばれる。この句はにらいかないの神が沖縄へその年初めての使者として、初東風を選んだと想像したところが面白い。新年になり初東風が暖かく吹いて来た。それはニライ神の命令なのだと言ったところが、暖かい沖縄らしい楽しい着想である。

  遠富士の見えて鈴鳴る破魔矢かな★土田 栄一  

 初詣して破魔矢を買い、それを手にして歩くのは楽しいものである。坂道を下りながら目を上げると、そこには富士山が遠くに小さく輝いていたのであった。「あっ富士だ」と嬉しくなって手を振ったとき、破魔矢の鈴が美しい音を立てたのである。東京でも方々で遠富士を見ることがある。私は世田谷の三軒茶屋から渋谷まで往復することがある。一日一万一、二千歩を歩くに丁度良い。帰り道に遠富士を時々見た。道玄坂の上からである。特に正月の澄んだ空の遥かに見える遠富士は素晴しい。この句は破魔矢の鈴の音の響く中で見える遠富士を描いたところが佳い。

  花ももの花芽ここよと小さくても★石原千圭江  

 桃の花の芽が顔を出し始めた。小さく可愛い芽である。これを見て千圭江さんは、花芽が「ここよ、ここよ」と呼んでいるように感じたのである。どのような草の芽も可愛らしさがあり、小さいながら力強さを持っている。しかし特に桃の花は花そのものが可愛らしく、ましてや花の芽となると一層可愛い。この句の佳さは、単に花芽が美しいとか、可愛らしいと言わずに、芽が「ここよ」と嬉しそうに呼んでいると表現したところにある。九十三歳の千圭江さんが持っておられるこの若々しい感覚に敬意を表したい。ますますお元気であることを祈っている。

  適塾にヅーフ部屋ある白障子★猪田 和子  

 適塾は適々斉塾とも呼ばれる。緒方洪庵が大坂に開いた蘭学塾である。緒方塾ともいう。天保九(一八三八)年に瓦町で開塾され、同一四年現在の地過書町に移った。洪庵は文久二(一八六二)年幕府の命令で江戸に出るまで、この塾で弟子を教育した。「ヅーフ」は蘭日辞典「ズーフ・ハルマ」のことである。この辞典は長崎のオランダ商館長ヘンドリック・ズーフ道富(一七七七 一八三五)が一八一六年編纂したものをさらに校訂し、天保四(一八三三)年に出来上った。なおハルマはオランダ人書籍商人フランソワ・ハルマの蘭仏辞典によっていることを示している。塾生達はこの辞書を頼りに勉強した。適塾の厳粛な雰囲気が白障子によって佳く描かれている。

  鉄棒にぶら下がつてるちやんちやんこ★中島 正則  

 鉄棒にぶら下がっているのが、「ちゃんちゃんこ」であるところが面白い。ちゃんちゃんこは勿論子供が着る防寒用の袖なしの羽織である。子供達は鉄棒で運動したり、遊んだりする。この句はその子供達がちゃんちゃんこを着ている光景を詠っているのかもしれないが、ちゃんちゃんこだけがぶら下がっている光景と見た方が面白い。鉄棒を物干台の代りに使っているのであろうが、いかにもちゃんちゃんこが自発的に鉄棒にぶら下がって遊んでいるようである。童話のように明るく楽しい句である。

  冬銀河へ直行玻璃の昇降機★村木 和子  

 高層建築のガラス張りで外が良く見える昇降機である。夜空には明るく冬銀河が輝いている。その冬銀河へ昇降機が一直線に昇って行く。ガラスが透明で昇降機から銀河が素通しに見え、昇降機と共に乗っている人も銀河へ直行するように感じられる。冬であるから空気も透明で、銀河も明るく輝いている。昇降機もガラス張りで何十階も一気に昇って行く。宇宙船かロケットに乗っているような気持ちがしてきて楽しい一瞬が描かれている。現代的な乾いた抒情のある句である。

  屋根神の扉開けあり路地小春★佐竹 昌子  

 屋根神とは、屋根の上に祀られている小さな祠であろう。路地の一軒に屋根神が祀られている。小春日和の日、この祠の扉が開けてあったのである。小春日和を神様も楽しめるようにと扉を開けたところに、この家の人々の心の優しさ、ひいてはこの路地に住む人々の情のこまやかさが感じられる。小春の路地のなごやかな光景、そしてそこに住む人々の温かな思いやりのある雰囲気を、屋根神の扉が開けてあることで描き出したところが優れている。写生の眼がよく働いていると思う。

  先づ犬を宥めてをりし門礼者★根岸三恵子  

 門礼、門礼者、礼者は賀客、年賀客などと共に新年の季語である。年賀や年賀客は現在でもよく使われる。しかし門礼、門礼者はあまり使われなくなった。新年に門口で挨拶すること、及びその客のことである。大都会ではアパート形式の家が多くなり、門を構えている家が少なくなったから、門礼が見られなくなった。門のあるような家では犬を飼っていることが多い。猛犬注意とわざわざ書いて貼ってある家もしばしば見かける。門礼に来た客が犬にほえられ、宥めているところがさもありなんと思う。ほほ笑ましい新年らしい光景である。

  一の糸締めて正座や寒牡丹★早川恵美子  

 一の糸とは言わずもがな、三味線の第一の糸である。三本の糸のうちで最も太い。従って最も低い音を出す。三味線を弾こうとして、先ずこの一の糸をきちっと締めて、びしっと正座をしたのである。その演奏者の傍らに寒牡丹の鉢が飾られている。いかなる場所かこの句から直接知ることはできないが、私は浄瑠璃が演じられようとしているところと思った。三味線の弾き手も、聴衆も緊張する一瞬の光景が佳く描かれている。

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