十人十色2014年5月

 

  節分の鬼に土産の豆渡す★前田 隆護  

 鬼に豆をぶっつけて追い出すのが節分である。その鬼に土産として豆を渡したところが滑稽である。  追儺ともいわれる鬼やらいの儀式は中国に始まり、日本には八世紀の初め文武天皇の頃に伝わったという。宮中の年中行事の一つである。それが社寺、やがて民間でも行われるようになった。節分はもともと季節の移り変るとき、即ち立春、立夏、立秋、立冬のそれぞれの前日を意味していた。太陰太陽暦では立春が元旦と定められ、節分は太陰暦の大晦日に行われるようになった。太陽暦の今日では立春の前日、柊の枝に鰯の頭を刺したものを戸口に立て、夕暮に豆をまいて鬼を追うのである。この句で鬼役をいたわり、感謝する気持ちがよく表わされていて、しかもユーモアもあり、面白い句であると思う。

 

  ひとり居に足りて仮設舎鰯挿す★松川 水甫  

 東日本大震災・大津波と、それによって起った福島第一原子力の事故による放射能災害によって、仮設住いを強いられている人々の苦労が詠われている。水甫さんもその一人であり、しかも仮設住宅にひとり住いをしておられるのである。大変な御苦労をされ、故郷の家を離れての生活であろうに仮設舎の戸口に節分の準備の鰯を挿したのである。そうやって伝統を守り、自分自身のみならず同じように災害に堪えつつ生活をしている仮設集落の人々の将来の幸を祈っているのである。水甫さんのこの御気持ちをこの句から読みとり感銘を深くした。一日も早く故郷に帰り平安な日々を送られるようになることを祈っている。

 

  人建てし物は消え失せ初景色★和気千穂子  

 この句には「人建てし物」が何かは一切説明されていない。人間の建てたもの、作ったものは、永遠ではなくやがて消え失せる。しかし自然は永遠に続き、初景色は永遠に繰り返されると言っているのである。しかしこの句は東日本大震災・大津波によって、人が建てた物が皆海へ流され消え失せてしまった光景を、詠っているのであると私は思った。何も無くなった海辺に初日が射している粛然たる光景が描かれているのである。人の建てた物は皆消えた。しかし初景色の美しさは不変である。自然への畏敬の念が佳く表わされている句である。

 

  日捲りのまだ分厚しや日脚伸ぶ★合田 憲史  

 昔懐かしい部厚い日捲りの暦である。日付の他に二十四節気とか七十二候が書いてあったり、格言が書いてあったり楽しいものである。柱に掛けたり机上に置いたりする。一月の終り頃、日脚が伸びて来たと思う頃は、まだまだ十一ケ月分の厚さが残っていて、今年はまだ十分長い。これから一仕事してやろうと日捲りをめくりながら元気が出るのである。この句の「まだ分厚しや」というつぶやきに、日脚が伸びもう春だぞという喜びと、これから続く豊かな月日への期待が感じられる。明るい句、元気が出る句である。日脚伸ぶという季語もよく働いている。

 

  ヴァチカンの凍てしパウロの足に触れ★森山ユリ子  

 ヴァチカンの宮殿にあるパウロ像の足を手でなでたのである。そしてその足の凍てつくような冷たさに驚いた様子が見えてくる。パウロは小アジアやマケドニアなどへキリスト教の伝道旅行をして成功したが、エルサレムで捕えられローマで入獄生活を送って後、ローマ皇帝ネロによって殺されたという。パウロの書簡は新約聖書の重要な部分になっている。キリスト教、特にカトリックで尊ばれるパウロが、このように凍てながらヴァチカンを守っていると、畏敬の念を持った様子がよく表わされている。

 

  吊し雛すぐに後を向くもあり★柴﨑萬里子  

 随分昔のこと、私の若い時伊豆の方へ旅したとき、吊し雛を見てこれは面白いと思ったことがあった。それがこの頃、東京の街でも吊し雛をよく見かけるようになったと思うが、それは私の思い違いで、昔から東京でも方々にあったのであろうか。吊し雛には、人形だけでなく、鳥や亀や兎、魚なども加えられていて楽しい。何本かの吊し雛が並んでいる。その中に正面はこちらであろうと向きを正してやっても、すぐに後を向いてしまうものがあるというのである。いたずら好きの猿などが加わっている吊し雛であろうか。後を向いて舌でも出しそうな様子が愉快である。

 

  春近し紫だちたる踏鞴の焰★石川由紀子  

 砂鉄と木炭を使って鉄を製錬する。そのときたたらを用いる。これは古代以来中国地方、特に出雲で盛んであった。江戸時代に最も盛んであったという。踏鞴は風を送る装置のふいごのことである。その鞴を踏んで空気を送ることを踏鞴を踏むというが、力を入れ過ぎて、から足を踏む意味にも使われている。この句は踏鞴を踏んだとき紫色の美しい焰が立った様子を詠っている。木炭が燃え上った紫の焰はまさに春の近い光景である。この句では、踏鞴製鉄の紫の焰に春が近いと感じたところが佳い。

 

  時計台あれば学び舎島の春★和佐 育子  

 小島にある岡の上に時計台がある。何のための建物かと岡を登って行くと、学校であった。四周の海がよく見え、島で一番景色のよい所に、時計台を備えた学校が建てられている。教育を大切にするこの島の人々の気持ちが、この時計台にこめられているのである。瀬戸内海の島々でも、長崎の沖の五島列島周辺の島々などでも、見られる光景である。特に春には海も、島も一番美しく、時計台も輝いている。そして学校では新入生も加えられて授業が楽しく行われているであろう。明るい希望に満ちた光景の写生が佳い。

 

  うちなびく菓子屋の旗やさくら餅★山口眞登美  

 春が来た。菓子屋ではさくら餅が売り出された。それを知らせる旗が風になびいている。この句を読むと、春が来た喜びがよく感じられ、さくら餅の美しい色が目に浮んでくる。「うちなびく菓子屋の旗や」とこの句を読み下すと、弾みのある句調が実によい。私はこの句を読みながら、心の中に「千里鶯啼いて 緑紅に映ず 水村山郭酒旗の風 南朝 四百八十寺 多少の楼台煙雨の中」という詩が浮んだ。この詩では酒旗の風であるが、この句の菓子屋の旗とどことなく通じる気持ちがあると思った。明るく気持ちの良い句である。

 

  古きパブ河畔に流る春灯★阿部  旭  

 この句の河はどこにあるのだろうか。「古きパブ」という上五から私はフランスのセーヌ河畔を思い出した。と同時にパブだから英国かもしれないとも思った。イギリスの田舎の居酒屋かもしれないと思い、若い日に暮したオックスフォードの街の河畔のパブを懐かしく思い出した。そのパブが河に落す灯の光が河の流れに揺れる様子を、ぼんやり見ていたことがあった。この句で単にパブと言わず「古きパブ」と古いことを強調したところが佳い。秋灯だと古いパブにつき過ぎである。春灯であるところがどことなく春愁を帯びていて適切である。

   Copyright@2013 天為俳句会 All Right Reserved