十人十色2014年6月

 

    塗りやすきバターとなりぬ日脚伸ぶ★小倉 晶子  

 一月の末近い頃、どことなく昼間が長くなったように感じる。夕方の明るさが少し遅くまで続くように思う。際だってそうだとは言えないが、何となくそう思える。その頃まだ寒さが続くが、気温もちょっと上ってきたかなと感じることがある。そう言えば冬の間固くかたまっていたバターが、少し塗りやすくなってきた。冬の間はバターを小さくした固まりのままでパンに乗せて食べることが多かったが、この二、三日バターが少しやわらかくなり、パンに塗りやすくなったようだ。というような時節の微妙な変化を、バターにとらえたところが具体的であり、パンが食べ易くなった喜びを表したところが、新鮮である。晶子さん、御元気で今後も佳い句を作って下さい。

  目借時紙の金魚の金魚鉢★渡部有紀子  

 春、暖かくなると誰でも眠気を感じることが多くなる。特に蛙の声を聞くと眠くなるという言い伝えがある。それは蛙に目を借りられるからなのだそうである。それはさておき嬰児の目を楽しまそうと、若い母親は一生懸命色紙で金魚を折り、その金魚たちを入れる金魚鉢も紙で作っているのである。目借時は気候も良く、気持ちものんびりする。蛙の声などを聞けば一層心がなごむ。その目借時の一時を、母親はひたすら金魚鉢を紙で折り、そこへ入れる紙の金魚を増やしているのである。嬰児もそれを見ながら声を上げて喜んでいる。目借時の夕べ、一家の平和な光景が浮んでくる。安らかな俳句である。

  鷹鳩と化して李白も失意あり★董 璐   

 盛唐の大詩人李白にも度々失意の時があった。玄宗に認められ宮廷詩人になるが、玄宗の寵臣高力士に嫌われて追放されるなど、度々の苦難に遇っている。李白は母が太白星(金星)を夢みて生んだので、白を字にしたという。天馬行空と言われ、詩仙と呼ばれ、真に天才であった。能ある鷹は爪を隠す天才李白も失意のときには、爪を隠したであろう。時節は春、鷹もその力を隠し鳩と化している。李白も失意の時には鳩と化したように振舞ったのであろうか。鷹が鳩に化すようなおだやかな春の日、失意の李白に思いを馳せたところが面白い。

  啓蟄の蟄の字覗く天眼鏡★今長 幹倫  

 太陽暦の三月五日頃、二十四節気の一つに啓蟄がある。旧暦の二月の節である。永い冬が終り虫がはい出る日という。ところで蟄の字がなかなか面倒である。虫の上にある部分はどんな形か、などと虫眼鏡で覗いてみたのである。そうしたら執であった。執と言えば執務とか執念の執であり、「とる」と「しっかりとつかまえる」という意味である。だから蟄は虫がしっかりかくれとじこもるということなんだと、よく分ったのである。天眼鏡で覗くという表現も面白い。いかにも虫を探しているよう。事実「蟄」の字の中にひそむ虫を発見したのである。

  輪中猫恋路に渡る橋いくつ★中林 嘉也  

 岐阜県の南部に輪中がある。木曾・長良・揖斐という三つの大河が流れている平野にある。この三大河の洪水による水害を防ぐため、一つの村落あるいは数村落をまとめて堤防で囲んである。輪中に住む人々は、日常の生活で橋を幾つも渡らなければならない。人だけでなく恋猫も橋を幾つか渡って相手の猫に会いに行くのである。風流と言えば風流、でもそれが輪中の生活である。輪中らしさを、ユーモラスに佳く写生している。

  蝌蚪泳ぐこの道ゆけば生家あり★国島 輝夫  

 春の一日、久し振りに故郷を訪ねたのである。川沿の道を歩いて行く。この道は子供の頃、学校へ通うにも遊びに行くにも、歩いた道であったと懐かしい気持ちになる。ちょっと川の中を覗いて見ると蝌蚪が泳いでいた。今も蝌蚪が泳いでいた。とすると自分が生れた家ももうすぐだと、頭を上げる。その道の少し先に森があり、その中に生家の屋根が見えているのであった。この川のこの辺りは、少年の頃から今も蝌蚪が集まる所なのだと、しばし思い出にふけったのである。明るい春の光に満ちた故郷の光景が、佳く描かれている。

  チャップリンのステッキの先いぬふぐり★岡西 宣江  

 いぬふぐりはヨーロッパが原産という。だからチャップリンが活躍したイギリスの郊外にも、ヨーロッパ大陸にもどこにでも咲いている。チャップリンは何時もステッキを持っていた。ちょびひげを生やし山高帽を持って、どこか哀愁のある喜劇俳優であった。この句はチャップリンがステッキを振り、「生えろ」と声を掛けると、野の一面にいぬふぐりが美しく咲き<GAIJI no="00172"/>ったような感じの光景を描いている。チャップリンのステッキといぬふぐりが咲く野原との組合せが面白い。明るい野に立ちステッキを振るチャップリンの姿に、去りし日を思い出す人も多いであろう。

  卒園や壁いちめんに小鳥の絵★妹尾 茂喜  

 幼稚園の子供達が卒園である。卒園を記念して壁に皆で絵を描いてよいと言ったらば、子供達は大喜びで大好きな小鳥の絵を描いたのである。幼稚園で絵を描くことを充分に学んだのであろう。小鳥の絵がどれも生き生きとしている。元気な子供達の夢が、小鳥の絵にしっかりとこめられている。卒園して行く子供達の未来が健やかで、幸せであることを、この絵を見ながら、作者は祈っているのである。明るい喜びと、祈りに満ちた句である。

  ままごとのそらいろごはんいぬふぐり★宮﨑 温子  

 子供達は夢を持ち、着想が新鮮である。ままごとであれば何でも美味しそうな御馳走の材料にする。この句の子供達はいぬふぐりを材料に選んだ。出来上った御馳走は、「そらいろごはん」であった。いぬふぐりの色は青、それは空の青であるから「そらいろごはん」と名付けたのである。何と楽しい美しい名前の御飯ではないか。いぬふぐりの花を沢山集め、それを何か大きな葉に盛り上げ、「そらいろごはんだよ。美味しい美味しい」と言いながら、遊んでいる子供達の姿が目に浮んでくる。明るい楽しい童話のような句である。

  春愁や亡夫の時計の時確か★木村 君依  

 君依さんの御主人が亡くなって数年経った。御主人は時間を守る人であり、正確な時計を大切にしておられた。しっかりとした精工な時計である。主が亡くなった今も、机の上で正確に時を刻んでいる。君依さんはその時計を見、時刻を読みとりながら、春の一時、御主人のことを偲ぶのであった。その思いは春愁となり、あの時は楽しかった、そしてこの時計を見ながら、一刻一刻を惜しんで語り合ったのだった。そしてと思いは切れることなく続くうち、ふっともう御主人はいないという深い悲しみに襲われるのであった。亡くなった人の時計の正確なことから春愁へと移る物語性が具象的で佳い。御主人の御冥福を祈る。