十人十色2014年7月


せせらぎやつかずはなれず座禅草★高橋静江子  

 座禅草は山中の湿地帯に咲く。四月から五月にかけて花が咲く。一つの株に一つの肉穂花序をつける。その花序は褐紫色の苞につつまれる。その形は炎のような形であるので仏炎苞と呼ばれる。この苞に包まれた姿は達磨が座禅しているようである。この句の座禅草は小川の近くに咲いているのであるが、川音がつかず離れずの所である。座禅をしている心がせせらぎにわずらわされないくらいであると同時に、心が安らぎ無念無想に丁度よいくらいになる距離であるところである。座禅草の静かな姿が佳く描かれている。ところで私は四、五十年前アメリカミシガン州の湿原で座禅草をみつけた。そばにいた友人に名前を聞いたらスカンクキャベッジだという。くさい臭がするからである。日本人は形の面白さに、アメリカ・イギリスなどの人々は臭に注意する違いが面白いと思った。

  避難指示とけて田打や先づ門田★松川 水甫  

 福島第一原子力発電所の事故のため、居住できなくなっていた地域の一部で避難指示が解除された。それを受けてただちに田打を始めたのである。それも先ず自分の家の門の前にある門田から打ち始めたのである。先祖伝来の家、そしてその近くの田畑、これは自分が育った所であると同時に、子孫に伝えなければならないところである。事故のため移住させられていたが、避難指示が解除された。何はともあれ大切な家へ戻り、先ず門田から打ち始めたのである。この句には移住生活をした苦労や、逆に家へ戻った喜びなどについて、主観的な言葉は一言も無い。しかし先ず門田を打つという客観的な描写が、その喜びの大きさを見事に表現している。

  被災地の家一軒に春立てり★佐々木ノリコ  

 この句の被災地は、東日本大震災で津波の被害を受けた所であろう。大津波で家々は流され、破壊されてしまった。その中でこの家一軒は奇跡的に難をまぬがれた。その一軒に春が来たのである。大震災以来三度目の春、この家の周辺はやっと瓦礫が片付いたくらいである。しかしこの家にはしっかりと春が立ち、平和な生活が戻っている。その周辺にはまだ家が建てられていないが、春となり、草や木などが復活しているに違いない。この句は、荒れ果てた被災地に一軒の家があり、その家と周辺に立春が来たことを描いて、希望を感じさせるところが佳い。

  西行の古歌を慕ひし花のかげ★長沼 敦子  

 私は若い頃万葉集の歌特に柿本人麻呂や山部赤人、大伴家持たちの歌ばかりを好み、古今や新古今の歌を読まなかった。と言うか嫌ったくらいである。そのような時代でも西行にはひかれるものがあった。六十歳を過ぎた頃からより一層好きになった。その契機は和久田隆子さんたち浜松の句友たちと、小(佐)夜の中山を尋ね、「年たけて又こゆべしと思ひきや命なりけり<RUBY><RB>佐</RB><RT>さ</RT></RUBY><RUBY><RB>夜</RB><RT>や</RT></RUBY>の中山」が作られた場所に立ったことであった。西行はまことに桜を愛し桜の歌を沢山作っている。敦子さんは西行の歌を慕って花のかげに立ち、西行の歌をつぶやいているのである。しみじみした情感の伝わってくる句である。

  木苺咲く森のガラスのレストラン★永井 玲子  

 森の中にあるガラス張りの明るいレストランで昼食を楽しんでいるのであろう。そのガラス戸やガラス窓からは一面の木や草の緑が美しく見えてくる。その中に木苺の花があったのである。木苺の花は五弁である。色は白が多い。たまに紅色のこともあるが、この句の木苺の花も白色であったと思う。近年は日本でもこのようなガラス張りのレストランが多くなったが、どことなくヨーロッパかアメリカの郊外のような雰囲気がある。明るい楽しい光景である。

  杉の葉の彩を加へて花御堂★合田 智子  

 四月八日の仏生会の光景である。誕生仏を祀る花御堂が花だけでなく、杉の葉が加えられているのである。信者たちが野や山からとってきた様々な花が飾られているが、赤とか白そして黄色が多く、たまに紫があっても、緑色の花はめったにない。そこで杉の葉の緑色が加わり花御堂の色が一層美しくなったのである。色だけでなく鋭くとがった杉の葉が輝きを加えている。花だけでなく杉の葉の美しさに着目したことによって、この花御堂の美しさがより一層強調されたところが佳い。写生の眼が佳く働いている。<NEWPAGE/>

  海雲漁小島の港東西に★いなみ 悦  

 もずくは海雲とも水雲とも書く。本州太平洋岸南部、瀬戸内海、九州西北岸、日本海岸中南部などで繁茂している。沖縄で盛んに養殖されているオキナワモズクは、本州のもずくより少し太い。美味であり現在はもずくと言うとこの沖縄のもずくであることが多い。本州のもずくは「ほそもずく」と呼ばれることがあるくらいになっている。この悦さんの句の小島は沖縄の小島であり、そこでは海雲漁が盛んなのである。この句の面白さは、小島の港が東西にあり、どちらでも海雲漁が行われていることを描いたところにある。海雲漁が盛んである様子が「港東西に」と言ったところによく表されている。

   片言が会話となりてチューリップ★佐野 伸子  

 チューリップが色とりどりに沢山咲いている。それを見て嬰児が「チューリップがきれい」と言ったのであろう。それまでは片言であったのが、このチューリップを見た時から会話ができるようになったのである。子供の成育を注意深く見ていると、このようにある一つのことを契機に大きく変化することがある。チューリップの美しさ、強さから片言が会話に変り、嬰児が一段と成長したことが、目に見えるようである。嬰児をいつくしみ、その成長を楽しみ、変化に驚き喜ぶ祖母の眼と優しさが感じられる句である。

  ヒマラヤに白き雲生る青き踏む★小高久丹子  

 旅好きな作者の句である。久丹子さんはヒマラヤの麓まで行かれたのであろう。高く聳え、山頂近くから中腹まで白い雪で覆われているヒマラヤ、それはまさに崇高な荘厳な姿である。そのヒマラヤにも春が来た。春らしい白雲が生まれ、ヒマラヤに優しさが加わった。その麓で、村人たちも旅人である作者も、青草を踏んで遊んでいるのである、雄大なヒマラヤを仰ぎながら、青草を踏み春を喜んでいる人々の様子がよく描かれている。白き雲に注目したことも臨場感を加えている。

  チューリップ運河のそばの喫茶店★福留 敏子  

 チューリップと運河と言えば、これはオランダの風景に違いない。チューリップが沢山咲いている中を運河が静かに流れている。その運河のそばの喫茶店でゆっくりとコーフィーを飲んでいるのであろう。どことなくのんびりとした気持ちのよい句である。こう書いている私も来週(六月十二日〜十五日)はオランダの北の街フローニンヘンにあるフローニンヘン大学の創立四百年祭に招待されて出掛けるところである。四十年前始めてその大学へ招ばれ一夏研究と講義をしたし、二十年前に名誉博士をもらった懐かしい大学である。その街の運河のそばの喫茶店へ久し振りに行ってこようと楽しみにしている。