十人十色2014年10月

 

 花菖蒲音の澄みたる水車小屋★五十嵐たかし  

 菖蒲田に一面に菖蒲の花が咲いている。その田の横に小川が流れており水車小屋がある。その水車がゆっくりと回っている音が、静かでしかも澄んでいるのであった。この句で水車小屋に焦点を当て、水車の音の澄んでいることを描いたところが佳い。音が澄んでいることから、流れる水も、菖蒲田の水も美しく澄んでいるように思われるし、花菖蒲の色も新鮮で輝いている様子が見えてくる。花菖蒲に水車小屋を配した構図が優れている。対象をじっくり見つめて、奇を衒わずに静かに詠む。たかしさんの作句法が成功している。花菖蒲の色の美しさと、水車の回る澄んだ音との照応も見事である。

 

  紫陽花に懸る三日月鄙の宿★堀口かつじ  

 山村か、農村地帯かの宿に一泊したのである。その夜星を見ようと外に出てみると、丁度三日月が紫陽花に触れるくらい低く出ていた。紫陽花は初夏に盛んに咲く。しかし花期は長く、九月の初め頃も咲いている。従ってこの句の季節は秋で、三日月を主な季語と見ることもできる。しかし、私はこの句の季節は六月頃で、紫陽花の最も美しい梅雨の頃と解釈したい。雨もよいの夜、外灯の下に紫陽花が美しく咲いている光景であると思う。雨もよいかと思って紫陽花を見ながら、少々その上を見たとき、そこに三日月が懸っていて、その美しさに驚き喜んでいる作者の気持ちが出ていると思った。かつじさんは九十歳である。この新鮮な感覚が素晴らしい。さらなる御健吟を祈る。

 

  老鶯や終の一声長く引き★今村 奈緒  

 春の間は生き生きと鳴いていた鶯も夏になると、だんだん鳴かなくなる。「鶯音を入れる」という季語もある。夏の鶯が鳴いたときの一声が長かったのである。いかにもこれは、この夏の最後の鳴き声であるように、しみじみとした長い鳴き声であったのである。その様子に一つの季節が終りつつあると感じた作者の心の動きが、佳く表現されている。「終の一声長く引き」にしみじみとした抒情がある。私もこの夏同じような老鶯の声を聞き、「老鶯の長きつぶやきにて終る 朗人」という一句を得た。それもあり、一層この句に共感したのである。

 

  炎天の砂漠が影を吸ひ尽くす★中川 手鞠  

 どこの砂漠であろうか。私はアメリカのアリゾナの砂漠を思い浮べた。残念ながらアフリカのサハラ砂漠は行ったことがないが、似たような光景であろうか。細かい砂ばかりの砂漠が炎天の下に広漠として広がり、どこもかしこも光が明々としていて、もの影が一つとして見られないのである。その光景を「影を吸い尽くす」と表現したところが巧みである。同じく砂漠と呼ばれても中国のゴビ砂漠の写生ではないと思う。ゴビは一帯に砂礫の広がる大草原であり、特に通常ゴビ砂漠と呼ばれる地帯も、砂と小石が混じっていて、小石のまわりに影があるからである。

 

  犬用の金太郎掛小暑かな★石毛 紀子  

 小暑は二十四節気の一つで六月の節である。この日から夏の暑さが始まるという。従って小暑はまだ暑さがそれほど厳しくない頃である。それでも愈々夏である。子ども達も昼間暑いので薄着をするようになり、そのまま寝てしまって寝冷えをするといけないので、金太郎と呼ばれる腹掛をしてやる。犬にも犬用の金太郎掛をしてやったのである。小暑になったので、寝冷をしないように犬にまで腹掛をしてやるところが、面白い。愛犬家の優しさが見えてくる。

 

  水を打つ巴里と云ふ名の理髪店★竹内 郁雄  

 日本にはパリが好きな人が沢山いる。実は私もその一人である。この句の理髪店主もパリが大好きで、店の名前を巴里としているのである。もしかしたらこの店主は、若い時代にパリで美容とかファッションの勉強をしたのかもしれない。その店主が洒落た理髪店の前で水を打っている。明るい街の光景である。大都会というより、もっと静かな街の光景と思う。大都会でも、中心から少々離れた所ではないであろうか。その辺の住人達にとっても、「巴里」という理髪店に親しみを持っている様子が感じられる。ほのぼのとした味のある佳い句と思う。

 

  赤梨や二十世紀は遠くなり★中川 郁子  

 二十一世紀も十四年たった。つくづく二十世紀も遠くなったと思う。戦争にあけくれした二十世紀の前半、そして敗戦後の苦しみを味わった二十世紀、更に長い平和を楽しんだ二十世紀後半等々と、様々な経験をしたが、今となれば懐かしむ気持ちが強い。食べものも様々であった。その中でも二十世紀という名の梨の味は忘れられない。特に敗戦後この梨を食べた時の喜びは強かった。二十世紀という名もモダンで未来性を感じたものである。赤梨から二十世紀という梨の名を思い出し、二十世紀も遠くなったとしみじみ思うところに抒情があると思う。

 

  舁き棒を清め山笠出番待つ★朝鍋 直子  

 山笠は山車の一種である。その中でも福岡市の櫛田神社の祇園山笠は有名である。山笠には二種類あり、一つはかき山笠、もう一つは飾り山笠である。飾り山笠には歴史や神話、伝説などの名場面を人形を使って飾り立ててある。櫛田神社の祭日七月十五日には、朝早く方々から山笠が櫛田神社に集合して、太鼓の合図に合せて全速で決勝点である上洲崎町まで駆け抜ける。かき山笠の重さは七百五十Kgもある。それを二十八人の舁き手でかつぐのであるから大変である。この句は早朝に舁き棒を水で洗い清めて山笠の出番を待つ姿を描いている。張りつめた緊張感が感じられる句である。

 

  ひとり去りふたり去りゆく合歓の花★溝口田鶴代  

 何本かの合歓の花が今を盛りに咲いている。それを見に何人もの人が来て、たたずんでいる。そのうち一人が去って行ったと見ていると、また二人目の人が去っていった。そして一時合歓の木の下には誰もいなくなってしまったのである。合歓の花の華やかさの中にあるちょっとした淋しさを、よく描いていると思う。実は私も七月の末、札幌の中島公園へ、札幌や小樽の「天為」の仲間と吟行し、数本の合歓の花の下で俳句を作った。その時この句と殆ど同じ句を作ったのである。ひとりを一人、ふたりを二人とした所だけが違っていただけであった。しかしこの句のように平仮名の方が合歓らしい優美さがある。田鶴代さんの勝であり、この句は田鶴代さんのものとしたい。

 

  満月の潮に陸蟹産卵す★太田 幸子  

 沖縄の方では、満月の夜蟹が産卵すると言う。この句では、満月の潮がさす頃、陸蟹が産卵する様子を写生している。自然が示す美しいしかも緊張する一瞬の光景である。その現場に出合った幸子さんは幸運であった。赤ん坊が生まれる時にも満月の影響があると聞いたことがある。科学的に実証されたことかどうかは知らないが、ありそうな気がする。この句で、満月と海の潮の力が、陸蟹の産卵を助けているという自然の不思議な相互作用が、美しく描かれているところが佳い。