十人十色2015年5月

 

  蝶を飼ふ少年ヘッセなど読まず★山本 順子  

 ヘルマン・ヘッセを私自身が初めて読んだのは、旧制高等学校時代であった。『車輪の下』や『デミアン』であった。『車輪の下』は神学校の詰込み教育に悩む少年の話であった。小学生や中学生には少々面倒な話であり、蝶を飼い生きものに興味を持つ少年にはまだ縁のない小説であろう。でももうすぐ『車輪の下』のハンス・ギーベンラートのように悩み反抗的になるかもしれない。この蝶を飼う少年があまり悩まず明るく少年時代と青春時代を送って欲しい。そのような願望がこの句にはこめられている。ファーブルのように昆虫の研究をし自然の観察をする研究者になるのもよいが、というような気持ちが感じられる句である。この句の作者自身はヘッセを読み人生にいろいろな思いを馳せているに違いない。


  湧水の豊かな美濃の出初かな★山田 和子  

 まことに美濃国は水の国である。長良川、木曽川、揖斐川の三川が流れている。従ってどこも湧水が豊かである。その美濃の国に美濃市がある。長良川の中流域であり、支流の板取川の合流地点である。その市の出初式であろう。ホースから吹き上げる水も豊富であり惜しみない。出初式もまことに勢のあるものである。この句の美濃は美濃国のどこでもよい。特に美濃市と限定しなくてよい。岐阜でも大垣でもよい。どこも川に望み湧水が豊かである。ただ美濃の出初という言葉から美濃市を私は思い出し、このように鑑賞した。この句で「湧水の豊かな」という言葉が佳い。枕詞のように美しく響きもよい。この言葉を用いた所が佳いと思う。

 

  炎二つ相寄る野焼き柳生の庄★西山 昌代  

 柳生は奈良市北東方にあり、もと柳生氏の陣屋があった地である。柳生といえば新陰流の剣客柳生十兵衛や柳生但馬守宗矩のことを私は思い出す。剣法で江戸幕府に使えた柳生一族の領地である。柳生の辺では今も春になると野焼きが盛んに行われるのであろう。その野焼きの二方向で大きく炎が上り、それが二つ相寄って来た。まるで剣客二人が立向って勝負をしているような光景である。野焼きでも柳生の庄のものは力があるように思える。柳生の庄という地名が生きている句である。


  高麗川の百瀬に遊ぶ百千鳥★石垣 燁潮  

 高麗川は秩父山地の東麓、埼玉県日高市の辺を流れる。この地には奈良時代の初期、高句麗からの帰化人約千八百人程が開拓し住んだ。高麗王若光を祀った高麗神社がある。高麗川には沢山の瀬があり、春になると鳥たちが賑やかに<GAIJI no="00575"/>る。明るく楽しい光景である。このような平和な美しい自然が広がる地であったからこそ、朝鮮の地より唐や新羅との戦を逃れてはるばると来た高麗人たちが、ここを永住の地と定めたのである。

 この句は「百瀬に遊ぶ百千鳥」と「モモ」という音を繰返し、明るく楽しい調子で詠ったところが佳い。

 

  寒明けの紅茶の湯気の高きかな★大友まり子  

 今日は寒が明ける日だ、立春だと心が躍る。急に温かくなり四方が明るくなったような気がする。朝食の準備をして紅茶をいれたところ、湯気が高々と昇ったのである。気温が高くなり湯気の昇り方に変化が生じたところを、鋭く発見して詠ったところが佳い。大友さんは仙台にお住まいであるが、東北の冬が終わり寒が明けた喜びを湯気の勢いによって具象的に表現したところが優れている。


  鬼やらひ豆の中から金平糖★田中 紘子  

 節分の豆まきで、豆の中に金平糖がはいっていたのである。誰のいたずらであろうか。金平糖好きのあの子かもしれない。子供たちが喜ぶ鬼やらいらしい光景である。金平糖はポルトガルより伝来し、長崎で盛んに作られた。昔はごま粒、後にけし粒を入れる。熱によってこれらの粒が弾け飛んで金平糖の角ができるのである。寺田寅彦がこの現象を物理的に解明したことは知られており、金平糖について複数の随想作品などで言及している。それはともかく、この句でまかれた豆の中から金平糖が出て来て、小鬼どもが喜んで口に入れる騒ぎが見えるようで楽しい。

 

  乾鮭を吊れる影濃き夕灯★藤域  元  

 鮭の腸を取り去った後、塩につけずにそのまま干したものが乾鮭である。北海道や青森、岩手、秋田などでは現在でもよく見られるのではないであろうか。東京あたりでは、めったに見ることが無くなったが、ごく最近世田谷の等々力不動を吟行していたら、一軒の料理屋に吊られている乾鮭を見掛けた。この句の乾鮭はどこで見たのであろうか。夕暮、もう周辺は暗くなっている。ぽっと夕灯がついたとき、乾鮭の姿が見えその影が壁に濃く差したのである。この句で乾鮭らしく影の濃さを描いたところが佳い。


  鍋奉行先程までは医師であり★多辺田 操  

 寄鍋、牡丹鍋、鮟鱇鍋など鍋料理は冬の代表的な料理である。鍋で具を温めながら多勢でその鍋を囲んで食べる。美味であり体が温まる。そして皆で一緒に話しながら食べるので心から和める。野菜とか、魚とかさまざまな具を適時に鍋に入れていく。その指図を誰かがやる必要がある。その人が鍋奉行である。時には出しゃばりの人もいて、鍋奉行にはそのような人を揶揄する意味もある。でも多くの場合鍋奉行は年輩の人であったり、顔役の人がなる。この句の場合は医師である。この街で皆に信頼されている人である。忙しい仕事を終え駆け付けて来てくれた。自然に鍋奉行になるのであった。ほのぼのとした温味のある句である。


  受験子の猫には笑顔見せにけり★内田  歩  

高等学校の受験か、大学の受験か。もしかしたら私立中学校への受験かもしれない。受験生は一生懸命受験勉強をしている。父母をはじめ家族は皆この受験生の張りつめた気持ちがいら立たないように、腫物に触るように注意しながら見守っている。受験生も真剣な面持ちであり、その行動の隅々まで緊張している。それなのに可愛がっている猫には時々笑顔を見せるのである。人間には緊張した姿しか見せない受験生も飼猫には笑顔を見せ、猫も普段と変らず普通に受験生に親しみ懐いていくのである。祖父母も父母もそのような受験子の自然な笑顔にほっとするのである。受験者の保護者の気持ちが佳く描かれた句である。


  薄氷を暫く覗きゆく雀★木村 君依  

 春になっても寒さが戻って来ることがあり、水面にまた薄氷が張ることがある。これがうすらいである。また冬に張った氷が春になって薄くなったものも薄氷ということもある。いずれにしても春光の水面のうすい氷を、雀がちょっと覗いては飛んで行く光景をこの句は描いている。数日前迄はこの氷の上を歩いて行けたのに、今日は歩くとあぶないと本能的に感じているのである。薄氷をちょっと覗く雀の姿に、早春の光景が佳く描かれている。一幅の絵のような光景である。