十人十色2016年1月

  

さいはての夕日に染まる珊瑚草★澁谷 さと

珊瑚草は厚岸あっけし草とも呼ばれる。満潮になると海水をかぶる海岸や砂地に群生する。緑色の茎が十月頃紅色になって美しい。北海道厚岸付近と四国の海岸に群生する。私が初めて珊瑚草を見たのは一九九二年の秋、東大文学部の考古学者達が発掘調査していた、オホーツク海岸の常呂遺跡を訪ねサロマ湖に一泊したときであった記憶がある。北海道も厚岸湾やオホーツク海はさいはてという思いが深い。そのさいはての地に美しい紅色の珊瑚草が群生している。そこへ夕日が射してきたのである。珊瑚草は夕日の紅にも染まり紅色を更に濃くしたのである。さいはてにあるこの自然の美しさを見て、さとさんは旅愁を深くしたに違いない。寂寥感のある美しい光景を詠った佳句である。

 

サルトルもカミュも胡桃を割りにけり★西 をさむ

サルトルは一九〇五年にパリで生まれ一九八〇年に死んだ。第二次大戦中抵抗運動に参加し戦後実存主義を主張した。カミュは一九一三年にアルジェリアで生まれ一九六〇年に死去。第二次大戦中サルトルと同じく抵抗運動に参加し、戦後は不条理の哲学を追究した。サルトルの小説「嘔吐」(一九三八)とかカミュの小説「異邦人」(一九四二)とか「ペスト」は、戦後の日本で多くの若者に大きな影響を与えた。私は特に「異邦人」と「ペスト」を耽読し、日本の小説と違う哲学的な固さ観念的世界の展開を楽しんだ。その哲学的小説家の二人がどちらも胡桃を割っている姿を思い浮べた所が面白い。俳諧的なものがどことなく非論理非合理なものに通じるところがあると思う。


琴糸を紡ぐ里なり律の風★村木 和子

琵琶湖の北の方の集落で琴糸を紡いでいた記憶があるが、もう昔のこと、あまり確かではない。この句の里がどこかは判らないが、静かな山里であろうと思う。律は中国や日本の古典的音楽理論で用いられる楽律のことであり、十二律が一般的である。ところで律の風とは秋風のこと、しかし多くの歳時記や辞書に出ていない。だが日本国語大辞典には「秋風」の異称とはっきり書かれている。やがて美しい音を生み出す琴糸を紡ぐ里らしく、爽やかな秋風が吹いているのである。この句で秋の風と言わず律の風としたことによって、琴の音色を感じさせたところが佳い。


万葉集に出番なき猫後の月★石川由紀子

万葉集にはいろいろな鳥や動物、そして植物が登場するがそう言われれば猫の歌はない。そもそも歌や俳句に猫、特に仔猫が盛んに詠われるようになるのは明治以降ではないだろうか。猫と月となれば萩原朔太郎の詩集「月に吠える」にある「猫」という詩を思い出す。「まつくろけの猫が二疋/なやましいよるの家根のうへで/ぴんとたてた尻尾のさきから/糸のやうなみかづきがかすんでゐる。(以下略)」と猫二匹と三日月を描いている。この句は猫が十三夜月の少し暗い光の下で遊んでいる様子を見て、万葉集には登場しないな、どうしてだろうかと自問自答しているようで面白い。猫は中国から日本へ奈良時代に渡来したといわれている。奈良初期の山部赤人や柿本人麻呂は猫を知らなかったかもしれない。でも大伴家持たちは見た可能性があるのではないだろうか。


箴言の短きに在り実山椒★早川恵美子

箴言は格言とも言われる。いましめとなる短い句である。旧約聖書の中のソロモンの箴言は有名である。なんと言っても箴言は短くぴりっと辛いところがよい。それに似たものを食べものに探せば山椒の実であると言ったところが、この句の面白さである。山椒の実は小粒でもぴりっと辛いのである。箴言は実山椒だと言い切ったところが佳い。


新刊書山と積まるる豊の秋★佐久間裕子

読書の秋である。新刊書を何冊も買ってきて、机の上に山と積んだのである。その本の山を見ながらこれは豊の秋だと感じたところが面白い。それも新刊書の山であるからである。これが図書館から古い本を借りてきて山と積んだとすれば、読書の秋とつぶやくことがあっても、豊の秋とは思わないであろう。新刊書であるからこそ、どこか収穫につながるものを感じ、豊の秋だと直観的に思ったのである。自分が読みたいような良書が沢山新刊された。今秋は良書が豊作だというような気持ちが出ている。


残照の空ひろびろと威銃★小野 恭子

日が沈んでもまだ西空には光が残っている。雀たちもその残照の中で穀物を食べに来る。威銃が時々鳴ると、その度鳥たちはひろびろと広がった残照の空へ飛び上るのである。昼間よりも夕暮の光の中の方が雀たちのさわぎがよく聞こえ、威銃に驚き空へ舞い上る様子がよく見えるのである。寝ぐらに帰る直前の雀たちの楽しそうな様子、威銃にたわむれるような騒ぎが佳く描かれている。
 

国の果て与那国どゅなん育ちの馬肥ゆる★垣花 東洲

与那国島は八重山諸島の一つである。八重山諸島は沖縄県も南西部であり、まさに日本の果てにある。その与那国島は沖縄弁でどゅなんと呼ばれる。この国の果てである島に育った馬がよく肥えているのである。馬も良く育つことから与那国島の気候の良さ豊かさが感じられる。この句を読んで与那国島を訪ねてみたいと思う人がいるであろう。私もその一人である。この句は与那国島への挨拶であり、国誉めであるところが佳い。


名月や光胸打つ卒寿過ぎ★米澤千恵子

名月である。その美しい光が胸を打つ。過去にも名月の光は美しいと思った。今年は特に美しく、胸を強く打つのである。それは自分自身九十歳まで健康で生きて来たし、今その卒寿を過ぎて更に元気に生きていけるということを嬉しく思うからなのである。名月の光が「胸打つ」と表現したところが佳い。卒寿過ぎを心から楽しんでいる様子が見えてくる。千恵子さんが更に白寿を詠われるまで元気でおられることを祈っている。


さつま汁煮れば夫母おはら節★迫田みえこ

おわら節には越中おわら節、津軽おはら節、鹿児島おはら節などがある。この句のおはら節は鹿児島のおはら節である。「花は霧島煙草は国分、燃えて上がるはオハラハー桜島」のおはら節である。それは摩芋の汁に喜ぶお母さんと御主人の姿から摩の歌でなければならないのである。明るい南の国の雰囲気が感じられる句である。