十人十色2020年5月

 

   引鴨の羽音に揺らぐ澪標★竹田 正明 

  澪標は水脈の串という意味で、通過して行く船に、通り易い深くて安全な水路を知らせるように立てられた杭である。浜松市の引佐細江は浜名湖北東部の町であるが、ここには万葉集の時代から澪標があり、万葉集の「遠江引佐細江の澪標吾を頼めてあさましものを」で有名である。この句はどこで作られたかは判らないが、やはりこの引佐細江の風光ではないかと思う。春になり鴨が北へ去って行こうとしている。引鴨が湖面から飛び上る度に、澪標のまわりの水面が揺らぐのである。いかにも引鴨の羽音に水面が揺れるようである。澪標が空を飛ぶ鴨たちの行路まで示しているように感じさせるところが佳い。

  脈脈と殷墟の刻字冴返る★佐藤 艶子  

  殷墟と言えば、中国河南省安陽市の北西郊にある殷王朝の後期(前一四 前一一世紀)の都の遺跡である。そこに多数の宮殿址や大小の墓そして沢山の竪穴が発見された。そして銅器や象牙彫刻とか玉器が出土した。しかし最も注目すべきは中国最古の体系的な文字即ち甲骨文を刻んだ亀甲や獣骨が発見されたことである。亀甲や猪、鹿、水牛などの肩甲骨に中国最古の象形文字で文章を刻み、それを焼いて吉凶を占ったのである。このような甲骨文を読むことで殷の歴史が明らかになった。この句は冴返る時節に、殷墟を訪問し甲骨文を読み脈々と続いた殷の歴史を知り、大きな感動を感じた様子が描かれているところが佳い。艶子さんは九十四歳、ますますお元気で再びこのような優れた旅吟をお作り下さい。

   徐福見たる蓬莱のある初明り★和泉 鮫人  

  秦の始皇帝(在位前二二一年 前二一〇年)が不老長生の薬を欲しいと思い、東方の蓬莱山に行きそれを手に入れることを、徐福に命令した。蓬莱山は中国の想像上の三神山の一つである。この三神山は中国山東地方の東海中にあるとされていた。徐福は童男童女数千人を連れて海中の三神山を捜しに出掛けたが、発見出来ず日本の紀州に上陸したと言われ、紀州にその記念碑が現存する。和歌山県新宮には徐福の墓とされるものがある。富士山麓の富士吉田市の富士浅間神社の近くに徐福が来たという伝説がある。徐福は富士山を蓬莱山とみたのであろう。その富士山に初明りがさしてくると、まことに蓬莱山のように厳かな姿になるのであった。伝説と初明りを結びつけたところが佳い。

   観音と継ぐ手綱の暖かし★飯嶋 政江  
  この観音寺は千葉県銚子市の寺であろう。そこの春のお祭りに観音の手に手綱の一端を結びつけ、信者達が別の一端を持って、観音の御利益を得るという行事があったと思う。私が銚子に住んでいたのは一九三七年(昭一二)から一九三三年(昭一四)まで小学一年生の四月から三年生の秋までであった。その頃の記憶があやしいのであるが、どこかでこのような話を聞いた覚えがある。ともあれ信じている観世音菩菩薩と手綱で結びついて喜んでいる気持ちがよい。いかにも暖かさを感じる。観音に対する親しみも感じられる。

   春兆す家形埴輪窓一つ★牛島千鶴子  

  埴輪の中でも最も早く出現するのは円筒埴輪である。吉備地方の弥生後期(紀元前後から紀元四世紀)の墳墓で出土している。家形埴輪も早く作られたようで、同じく吉備の弥生後期の女男(みょうと)遺跡などから出土されている。住居や高殿、倉庫、納屋などの埴輪がある。住居は平屋であるが、戸口や窓が備えられている。その家形埴輪に窓が一つ開けてあるのを見て、春の兆しを感じたところが佳い。弥生時代の人々も春を待ちこがれたであろう。

オカリナに調子づきたる春の駒★石川由紀子 

  吹口が鵞鳥の嘴に似ている楽器で、粘土か陶器で作られている。オカリナはイタリア語で鵞鳥のことである。現在では金属製のものもあり、長円形、卵形或は鳩形のものなどがある。春になって、冬の間厩舎に入れていた馬や牛を広々とした牧場へ解き放つ。馬や牛は大喜びである。そこへオカリナを吹き鳴らすと、馬たちが一層調子づいて走り始めるのであった。春となり牧場で髙々と吹き鳴らすオカリナによって、馬達が一勢に調子づく光景は、まさに春の風物である。

   動き出す大山椒魚寒明ける★栗木 久恵  

  山椒魚はいもりに似た形である。産卵は淡水中で行われ、幼虫は水中で育つ。普通の山椒魚は成体は陸上で生活する。それに反し大山椒魚は一生を水中で過ごす。生息するのは主として山間部の渓流であり陸に上ることはない。昼間は渓流近くの岩穴の水中にかくれていて、夜になるとその穴から出て、小魚や蛙などを食べる。昼間でも穴の中でじっとしている大山椒魚を見かけることがある。そのような大山椒魚が昼間少々動き出したのである。それは正に寒の明ける日であったところが佳い。人間だけでなく動植物も寒明けを待っているのである。大山椒魚は「はんざき」とも呼ばれる。

   早春の川瀬に跳ねるピチカート★阿部  旭 

  ピッチカートはイタリア語。バイオリンやビオラとかチェロなどの弓を使う弦楽器を、弓を使わずに弦を指ではじく演奏法である。早春になると川瀬の水も温んでくる。そして水の流れの音も明るく弾むように聞えてくるし、小魚たちも水面に出て来て、時に空中に飛び上ることもある。まさに川瀬から弦楽器を指ではじいて鳴らすようなはずんだ音がしてくるのである。その様子をピチカートと言い表したところが優れている。

   二ン月やスペイン皿の海を恋ふ★三好万記子  

  スペインの東岸、南は地中海に面している。気候も地中海気候で一年中温和である。二月になるともうすっかり春で、青々とした海が美しい。日本の二月は立春が過ぎてもまだまだ寒いし、冴返ることもしばしばである。その二月の初め、食卓に出されたスペイン製の皿を見たらば、そこにスペインの海が青々と描かれていたのである。それを見た瞬間、スペインの海を見に行きたいと思ったのである。皿に描かれた海の光景からスペインを恋しく思ったところが佳い。私はスペインと言うと先ず南部のグラナダのアルハンブラ宮殿を思い出す。

   夏雲へ飛ぶアボリジニのブーメラン★堀場美知子 

  アボリジニは先住民という意味であるが、オーストラリアに住む先住民である。日本でもブーメランは子供達の間で人気のある玩具であるが、本来はオーストラリアの先住民が鳥や小動物を狩猟したり、戦闘に用いた道具である。面白いことにブーメランの大型のものが古代エジプトでも既に知られていた。美知子さん夫妻はオーストラリアへ旅行され、先住民たちがブーメランで狩をする様子を見たのであろう。オーストラリアの夏空へブーメランが高々と飛ぶ光景が明るい。そのブーメランは鳥に向かって投げられたのであろう。

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