<書評>

    甲斐由起子著

     『近代俳句の光彩』を読んで

東 聖子

(十文字学園女子大学短期大学部教授)

 

 

 

 岡倉天心は明治三十九年に、ニューヨークで『茶の本』を刊行する。その第五章「芸術鑑賞」にこういう。

 真の芸術は伯牙であり、われわれは竜門の琴である。

道教の逸話であるが、今回、我々は甲斐氏の本書を通して、23篇の竜門の琴の音を聴いた気がする。そこには伯牙の真の芸術がほのみえていた。

 清雅で美麗な装幀の本書は、平成十八年三月十五日に角川書店から刊行された。跋によれば、俳誌『祥』(関口祥子主宰)に、平成十一年十一月から平成十七年十一月まで、「現代俳句鑑賞」として連載した23篇の作品評を加筆・訂正して纏めたものという。帯に〈繊細な感性と明敏な洞察力に裏付けられた清冽な作品評。芳醇な香気漂う珠玉の23篇〉とある。この春、武蔵野の野辺で穏やかな風に吹かれつつ読んだ本書は、約二百頁の評論世界が不思議に一つのテーマで貫かれ、七年間の歳月を経た23篇は一語一語が丁寧に吟味され、若々しい重量感とともに迫ってきた。

 まず、本書の構成を見てみる。23人の近代俳人はこうだ。

 永田耕衣・寺山修司・松本たかし・渡辺水巴・細見綾子・

 高屋窓秋・篠原鳳作・橋本多佳子・芥川龍之介・夏目漱石・

 室生犀星・芝不器男・石橋秀野・星野立子・阿波野多美子・

 中村汀女・三橋鷹女・野澤節子・篠田悌二郎・石田波郷・

 山口青邨・川端茅舎・井本農一  

 これらは、男性15名、女性8名。生年からいうと、明治生まれは約18名、大正生まれは節子・波郷・農一の3名、昭和は修司と多美子の2名であり、明治生まれが多い。小説家は芥川・漱石・犀星が並んでいる。収録作家のキーワードが、各々その本質をよく把握している。独自の鑑賞眼による作品の選択が、秀逸である。各篇は、まず甲斐氏が選んだ一句を一頁に出典とともに掲載し、次に各俳人の略歴を示してゆく、この形式が効果的である。

 次に、本書を貫くテーマを考えてみる。統合するテーマとは、アルフォンス・ディーケンス氏の「死生学」、あるいは甲斐氏が橋本多佳子論で自ら言われた「タナトス(死)」を背景とした俳句芸術論ではなかろうか。死とはなにか、世とはなにか、彼岸とはなにか、―では生とは何か・・・という筆者の精神の淵源に深く深く沈殿しているその重い錨の如きテーマが、全篇を貫いているようだ。

 永田耕衣の章で、「故に「夢の世」は、現在を含む過去の厖大な時間を引き摺っている」「諧謔とは、さまざまな苦しみに耐え、孤独に耐えて、初めて得られるものなのであろうか」と語る。渡辺水巴の章で、虚子の「(俳諧は)即ち極楽の文学である。然し乍らそこには地獄の裏づけがあることを常に忘れてはならぬ」(『玉藻』昭2812)という至言を引用している。高屋窓秋の章で連作に「明らかに彼岸の風景を表している点」を指摘する。橋本多佳子の章では「多佳子作品に見られるエロス(愛)とタナトス(死)」の存在を明確に解説する。夏目漱石については、「臨死体験を通して生き返った歓び」を指摘しつつも、漱石自身の「日記」から「願ふところは閑適にあり」を引用する。三橋鷹女の章では、その作品には「死の匂いが濃厚であ」り、老年になっては「孤絶した世界で、何とか言葉を得ようと格闘する鷹女の執念」が伝わるという。野澤節子の章は、若き日に脊椎カリエスを患った彼女は「常に「虚に居る」ということ」、そして「「虚」の目を通して詠出された世界は、寂寞として自在」であるという。石田波郷の章は、召集された後、結核の病に倒れた彼には「「この世」が「あの世」であり、「うつつ」は「夢」でもあろう」と述べる。川端茅舎の章では、「宿痾のカリエスによるままならぬ身が、小さきものへの愛を喚起した」と推測する。これらの、おのおのの作家の個性とタナトスの相関図は甲斐氏の鑑賞眼・芸術性がつかみ得たものである。

 さらに、早世した作家についても考究する。篠原鳳作(30歳早世)の章では、「作者が「瞑(めつむ)」った瞬間、月と一体化し」ているのだという。芥川龍之介(35歳早世)については、「若くして精神の奈落を味わった者特有」の「病的なまでに研ぎ澄まされた感性」を語る。芝不器男(28歳早世)の「「あなたなる」のリフレインは・・・心象をも示す」という。石橋秀野(39歳早世)は山本健吉の妻だが、「死期近い作者の清澄な心境を反映して哀れ」であると語る。阿波野多美子は、『俳文学大辞典』にも『日本近代文学大事典』にも項目がないが、甲斐氏は慧眼にも紹介する。阿波野多美子(24歳早世)には、百句に満たない遺稿集『薔薇』があり、「苦痛の絶頂にある時も実に冷静」であり、「多美子の澄み切った諦観を看取ったのは、松の花と神であったか」と分析する。 

 そして、一見くったくなく、生きた俳人たちも描き出している。それは「言葉や趣向を巧まずとも素直で豊かな表現」を「写生の心」とした虚子の次女、星野立子。そして、「自然の摂理に従って生を全うした」「安寧」の俳人、中村汀女。これらもまたひとつの生なのである。

 それらに対し、長生した俳人もいる。細見綾子(90歳)の章は、『奈良百句』について「千年の一と時、即ち「無常」を生きる「現し身」に「永遠」を見出す巡礼」であったとする。耕衣も97歳の大往生であった。

 山口青邨(96歳)の章では、「陶淵明の高邁な精神の在り方に通ずる」馥郁と「薫る菊」に惹かれつつ、おおらかであたたかい写生を解析する。井本農一(85歳)の章は、師の「人生は、二度とくり返すことができないところに、その厳粛さがある」という思想的根幹を見いだしつつ、『阿弥陀経』を引用し、本書がすべての、地上に俳句を遺し天上界へ逝った人々への、鎮魂の書となっていることを示していよう。

 

  夢の世に葱を作りて寂しさよ     耕 衣 

  千年の一と時生きて吾余寒      綾 子 

  瞑れば吾が黒髪も月光となる     鳳 作

  月光にいのち死にゆくひとと寝る   多佳子 

  菫程な小さき人に生まれたし     漱 石 

  手術受く身の慎みの薫衣香      多美子 

  白露や死んでゆく日も帯締めて    鷹 女 

  菊咲けり陶淵明の菊咲けり      青 邨 

  約束の寒の土筆を煮て下さい     茅 舎 

  ままごとのお金はもみぢ兄いもと   農 一 

 

 人間にとって、大切な人が突然地上から去った時、愕然とする。かつて、芥川龍之介は、夏目漱石の逝去に際して、精神の動揺を「葬儀記」という小品と、芭蕉没時のフィクションとして『枯野抄』に小説化した。甲斐氏の本書執筆の七年間も、平成十年十月十日に逝去された井本農一氏の存在が何であったかを問う作業、あるいは、天上と地上を理解する作業であったかと想像される。23篇はかぼそく低いピアニシモから出発し、橋本多佳子あたりから独自の様相を帯びてくる。最後には、一皮むけた透徹したピアニシモとなっている。

 近代俳句の評論にとって、得難い新人が登場した。実証的で、引用文が正確であり、古典の教養を背景として、そして何よりも文体がおおらかでよどみなく正確である。また、視座が定まり、本質的で大きなテーマを的確に見据えている。本書からいくつもの研究課題が受け取れる・・・ジェンダー論・表現性・阿波野多美子論等々・・・。七年間の本書執筆の、その丹念な仕事により、甲斐氏の学究的側面が開花し、みずみずしい俳句評論書が世に出た。さらに、丹念な仕事をじっくりと創造されていって欲しい。また、本書は若い人々に俳句入門書として、是非読んでいただきたい。内容は深いが、間口は広い。

 最後に、『俳文学大辞典』の、〈天為〉の項には、「開かれた自由な結社をめざす」とあるが、超流派的な論書を許される姿勢に敬意を表したい。また、有馬朗人氏の「自然も人間も「天為」以外の何者でもない」という至言を聞き及んでいる。本書は、天上と地上のあわいで、学問の師と母の両者の死に対峙し、精神的に格闘した結果、提出された一つの答えとしての近代俳句評論である。ここが、甲斐氏の詩論の出発点であろう。

 読後感の清楚な暖かさは、死生学と鎮魂との果てに、愛と創作がほのみえてきた証しではなかろうか。今後の句作・評論をおおいに期待したい。

 

(平成十八年三月角川書店刊)