カジトモ年代記(疾風怒濤篇)(4)

                          梶 倶認


  5 本郷句会

 私が朗人先生に初めてお目にかかったのは、先生が50歳になるかならないかくらいのときだった。私は、今大体それくらいの年齢になったので、ずいぶん長い時間が過ぎたと感じている。
 十月下旬は日暮れが早い。大学1年生の私は、暗くなった安田講堂の辺りを歩いて、理学部の建物のドアを開けた。ドアの内側は、蛍光灯が白く点っていて、ドアの外側と内側の違いが今でも、印象に残っている。
 誰から言われたかは覚えていないが、理学部の先生が句会をしているという話を聞いたので、授業が終わってから、駒場から本郷に来たのである。この理学部の先生が有馬朗人先生であり、その句会が本郷句会である。句会の会場は、1315号室という会議室だった。普通の椅子の他にソファもあったような気がする。また、テレックスという機械があった。句会の最中に、この機械が突然かたかたと鳴り出して、タイプライターで英文の原稿を打ち出していた。
 一番最初の句会には、朗人先生の他に、小林さん、佐怒賀さん、寺澤さん、天野さん、岸本君が出席していたように記憶している。
 私は、この句会で、ビギナーズラックの2回目を経験した。
 
  夭折のおばの忌梨をむきすてぬ

 この句を朗人先生が特選に選んで下さったのである。先生は、この句について、マザーコンプレックスのようなものが感じられるとおっしゃっていた。もっとも、この句について、種明かしをすると、こういうことである。私には確かに中学生で亡くなった叔母がいる。しかし、叔母が亡くなったのは、5月の東京大空襲であって、梨という季語の秋のことではない。前に、当時、若い人が前衛的なものに関心が向いていたことを書いた。その一つの傾向で、落語ではないが、身内が死んだことにして句を作るということがあった。私もそのような影響を受けて、この句を作った。先生の句評は驚きであり、照れくさいような気持ちになった。俳句は、書かれてしまえば、作者から離れて、その句を読む者のものになるのである。このことは、先輩から繰り返し言われていた。この作品は、先生にこのように解釈していただき、作者である私を離れ、句座のものになったのである。
 朗人先生は、今でもそうであるが、非常に広範な知識をお持ちで、それに基づいて、作品評をされていた。本郷句会で、うかがった話によれば、朗人先生は、現代詩では荒地の詩人の作品に興味をお持ちだったこと、短歌では塚本邦雄の作品がお好きで、斎藤茂吉についても関心をお持ちだったこと、詩人では西脇順三郎がお好きだったことを覚えている。俳人で、高く評価されていたのは西東三鬼だった。もちろん、聖書についての知識は豊富で、海外の詩についてもご存知であった。変わったところでは、エッシャーがお好きで、当時エッシャーについてご本を書かれていたのではないかと思う。
 本郷句会の進行は、朗人先生を含めて、出席者全員で互選し、高点句から順々に批評をした。批評するのは、朗人先生だけではなく、参加した者全員だった。まず、作品を選んだ人が批評し、次にとらなかった人がとらなかった理由を明らかにした。批評の原則は、作品自体から何が描かれていると読めるか、読めたものが今まで書かれて来た俳句の中のある句と類句にならないかということに基づいてするというものであった。ある俳句を選んだ人が、それぞれの読みを披露することで、この作品にそのような読みができるのかと驚いたこともあった。今でもそうであるが、高点を集めた句について、ほかの人を説得できるようなとらなかった理由を述べるのは難しかった。このような理由を述べ合っていたが、当然、朗人先生や先輩から類句があるとか、表現がおかしいのにどうした選んだかと聞かれ、つまることもあった。また、本郷句会のメンバーは、学生で、それぞれ俳句についてのイメージを持っていたので、朗人先生の作品や作品評についても、思うままに評をすることがあった。これに対し、朗人先生は丁寧に聞いておられ、そのとおりだと思われるところは認め、おかしいところは誤りであると指摘されていた。ところで、類句の点で、学生の中で実力を発揮したのは岸本君だった。何回か前に書いたことだが、岸本君は、たくさんの俳句を覚えていて、こういう句がありますと、すぐに類句をあげた。このように、選んだ人、選ばなかった人による評が終わってから、作者が名乗った。このような批評は、1点句までされた(もっとも、時間の関係で、1点句は選んだ人の批評だけで終わることが多かった。)。本郷句会のこのような作品評の中で、私は、俳句の読み方、切れの問題等も学んだような気がする。本郷句会の参加者は、東大学生俳句会のメンバーが中心だったが、小澤實さんや四ッ谷龍さんが参加したこともあったように思う。
 本郷句会の幹事は、私が大学1年生のころは佐怒賀正美さんがしていた。佐怒賀さんは、場所と時間を書き、誰かの俳句を一句を加えた案内状を葉書で下さった。いつか時期は覚えていないけれども、幹事を私が引き継ぐことになった。私は、佐怒賀さんのように案内状を作らずに、電話で連絡していた。幹事の仕事の一つが、会場の会議室の鍵を朗人先生にお借りしに行くことだった。先生の研究室は、会場の会議室とは離れていた。あるとき、私が、先生の研究室に鍵をお借りしにうかがったところ、外国人の留学生みたいな人がいて、黒板に積分記号みたいのがたくさん並んだ数式を書いて先生に英語で何か話していた。文化系の学生である私は、このような数式を見ただけでも、何か深遠なことが起きているように思えたのだが、朗人先生は、頷きながらしばらく聞いた後に、数式の半分以上を消してしまい、また、英語で話をされていた。このときは、何が起きているか分からないが、何か重大な事件の現場にいるような気がしたのを覚えている。
 鍵を受け取ると、句会をする会議室までいつも行ったが、途中ガスボンベが寝ている理学部の暗い廊下を通り、渡り廊下を渡った。この句会の場所について、朝日新聞で、小林恭二さんが「奥の院句会」と書いていたが、そのような感じだった。また、このようなガスボンベがあるところを通っていたし、物理というと、実験というイメージがあったので、文科三類の学生であった私は、理論物理学者である朗人先生に、先生は実験するんですかとお聞きしたことがある。朗人先生は即座にないとお答えになった。考えてみれば、当たり前のような感じがする。それから、朗人先生は計算尺を愛用されていたようだが、間違いだろうか。このようなことが今でも思い出に残っている。
 句会が終わると、根津の方の喫茶店で、朗人先生にお茶とサンドウィッチをご馳走になりながら、また、俳句の話をした。朗人先生がお帰りになると、私たちは、根津駅の近くで、飲んで解散した。
 去年か一昨年になるか、東大で天為の吟行会が開かれた。そのときに朗人先生からうかがった話では、本郷句会が開かれていた会議室は今でも残っているということである。
 私にとっての楽しい句会のスタンダードになったのは、この本郷句会である。ここで学んだ俳句の批評の仕方が、他人の作品を読むときの基礎になっており、自分の作品を作るときにも指標となっているのである。
 本郷句会は、今は、場所が本郷ではないが、継続されているようである。私は、今から5年以上前に、1回参加したことがある。句会の仕方などは変わらなかった。(続く)