カジトモ年代記(疾風怒濤篇)(5)

                      梶 倶認



    6 三浦半島吟行

 私が初めて本郷句会に出席する少し前のことである。当時十月十日が体育の日だったので、この日のことだったと思う。大学は、夏学期の試験が九月に終わり、十月二十日ころから冬学期が始まるので、十月上旬ころ少し休みがあった。この間、何もしないのもどうかということで、三浦半島へ吟行に行くことになった。
 品川駅で朝待ち合わせをして、京浜急行で、三崎口駅へ行った。メンバーは、寺澤さん、天野さん、山田さんと私だったと思う。岸本君も来る予定だったが、品川駅には現れなかった。京浜急行の三崎口駅で、油壺へ行くか、城ヶ島へ行くか相談した。その結果、マリンパークがある油壺に行くことになった。バスに乗り、油壺に着き、マリンパークへ行って、上の方の階の魚の餌付けを見せる大水槽の前へ行くと、大水槽の中をじっくり見ている男がいた。岸本君だった。岸本君は、当時小田急線の沿線に住んでいたが、電車が遅れたか何かで、品川へ行くのが間に合わないと思って、直接油壺マリンパークへ向かったそうである。それで、俳句を作るために、マリンパークの大水槽の前で、じっと観察していたようである。このようにして、岸本君と合流した後、私たちはマリンパークのレストランに行った。
 そこで、寺澤さんだったと思うが、東大学生俳句会の次期の会長と会計を決めようという話が出た。大学一年が岸本君と私しかいなかったので、この二人から会長と会計を決めるということになった。岸本君が会計をすると言い、私が会長ということになった。会長というと、偉そうであるが、実際には、合宿やコンパの日程を調整する等幹事のような役目だった。
 東大学生俳句会の当時の会長は小林恭二さんだった。小林さんは、私たちが三浦半島に行ったころ、ヨーロッパ旅行中だった。それで、会長の外遊中、クーデターが起きたというような冗談が出たこともあったと思う。しかし、まあ、前のような経緯で会長が決まったのであり、確かに小林さんから会長の地位の禅譲を受けたのではないけれども、クーデターというような大それたことが起きたのでもなかった。
 油壺の後、城ヶ島へ渡り、夕方、城ヶ島で鰺か何かの刺身を注文して、ビールを飲んで、この吟行会は終わった。どんな俳句ができたかは覚えていない。しかし、作らなかったことはなかったと思う。
 城ヶ島で夕食を食べた後、新宿で句会があるというので、みんなで新宿へ行った。私は、小澤實さんにこの句会で初めて会ったと思う。

   7 大学一年の冬学期のこと

 十月二十日を過ぎたころから大学の冬学期が始まった。小佐田先生の作句演習ゼミも冬学期の開講になった。私も岸本君も引き続き受講した。理科の学生は実験か何かがある関係で冬学期は受講することができず、人数が減った。
 私にとって一年の冬の学期の最大の出来事は、日原傳と会ったことである。日原君とはこのとき以来の付合いであるので、三十年近く時間が過ぎたことになる。日原君は高校時代廣瀬直人先生の授業を受けていたそうである。日原君は、当時今より痩せていたが、それ以外のところは、今とあまり変わりはない。普段は無口だが、酒が好きで、酒をある程度の量飲むと、ものすごく愉快になる。それでということもないが、よく飲んだ(この話は、日原君からすると、お互い様ということになるかもしれない。私も酒を飲む方だし、飲むとうるさくなるタイプらしい。らしいと書くのは、飲んで騒いでも、醒めると忘れてしまうことが多いからである。ただし、日原君の方が酒は強い。)。柿本人麻呂の長歌をそらで大きな声で朗唱することもあった。これから現在まで、日原君とは、色々な機会で一緒ということが多かった。
 夏学期から冬学期を継続して、小佐田先生の作句演習ゼミを受講した人を三人ばかり紹介したい。
 まず、由井純さん。由井さんは、理科一類の一年生で、理学部の天文学科へ進学した。また、オーケストラに所属していて、ファゴットを演奏していた。星に関心があることから、星を題材にした写生の作品が作っていた。

  春星の先駆獅子の胸厚し

のような作品を作っていた。
 池田嘉津弘さんは、理科二類の二年生で、薬学部へ進学した。静かな人で、丁寧な俳句を作っていた。

  秋草や人様々に名を与え

といういような作品があった。
 原洋さんは、文科三類の二年生で、文学部西洋近代語近代文学科に進学した温和な人だった。俳句も暖かみが感じられる作品を作っていた。

  さわやかに正坐のひざを崩しけり

 このような作品を作っていた。
 冬学期に小佐田先生の研究室に現れるようになった人に水原亜矢子さんがいる。水原さんは、成蹊大学の学生だった。大伯父が水原秋桜子という俳人として由緒の正しい血筋の人だった。どのような経緯で、小佐田先生の研究室に出入りするようになったのかは分からない。アルゼンチンに住んでいたことがあるようで、アルゼンチンの話を研究室でよく話していた。UFOを見た人の話とか地球の反対側の話は不思議な話が多かった。俳句は、前のような血筋もあって、美しい写生の俳句を作っていた。

  日傘さす人のやさしき京言葉

 このような作品が、東大学生俳句会の部誌の原生林の二十号に出ている。
 三月に、伊豆半島で合宿をした。合宿した場所は、西伊豆の戸田の寮だった。この寮には、合宿の一週間前に、別の合宿で行ったが、寒い雨が降る中、沼津からほとんど客が乗っていない船で戸田港へ行ったので、とんでもなく寂しいところのような気がしていた。しかし、東大学生俳句会の合宿のときは、晴れていて、春の海を船で愉快に戸田港へ行った。寮は、戸田の町のはずれの砂嘴が海の方へ出ているところにあり、妙高高原の寮とは違って、新しくきれいなものだった。
 原生林の二十三号に小佐田先生が書かれた一季一情(第五部)によれば、このときの作品には次のようなものがあった。

  赤富士を背に少年のさびしかり     善夫
  春光に触れてはなれて海深し      亜矢子
  さつまいも花咲いたサーカス一座    一雄
  突堤のもう一つある朧月         富士江
  月上げて沖より朧寄せ来る        恭二

 この合宿の最後の日も、コンパになり、大分酒を飲んだ。飲んで、由井さんと、寮の食堂で、朝の三時ころまで俳句の話をしていた。
 帰りの日に、題が十以上出た題詠の句会があったのもこの合宿だったように思う。沼津の食堂で、互選をしたような思い出がある。(続く)