カジトモ年代記(疾風怒濤篇)(9)
梶 倶認
11 名付けの会のこと
大学2年のときの十月のことだった。小林さんから電話をもらい、夜東横線の自由が丘駅で待ち合わせて、会い、色々と話をした。
ここで、私の理解している範囲で、当時の短歌や俳句の状況をここに書いておきたい。まず、短歌については、俵万智の「サラダ記念日」が出る前であり、穂村弘、斉藤斎藤等といった歌人の出現や「ケータイタンカ」というものが出現することは予想が困難な時代だった(むろん、携帯電話が三十年後にこんなに普及することを当時予想していた人が日本に何人いたかもわからない。)。俳句でも、いわゆる「俳句ブーム」が起きる前の時代だった。それでは、どのような時代だったかというと、当時アメリカ合衆国とソビエト連邦が厳然として存在し、お互いに対立していたように、これらのジャンルでも、前衛と伝統が激しく対立していた(正確には、前衛の作家の優れた人たちは、伝統にたった作家の優れたものについてその価値を認めていたが、伝統の作家の大半が、前衛という名前に嫌悪感を催して、これらの作家たちを忌避し、前衛の作家のエピゴーネンたちが、伝統ということだけで、何か遅れたもの、芸術的に価値が低いものと見ていたということかもしれない。)。若い作家は、俳句の詩的な可能性を探ろうと、前衛の作家を信奉する者が多かった。俳句でこのような作家に高柳重信がいた。高柳重信は、その編集する雑誌の「俳句研究」で、「五十句競作」という題で、毎年作品を募集し、高柳重信に憧れて、俳句作家を目指した若い作家はこれに応募していた。
何回か前に小林さんが詩的なものとしての俳句の可能性を探っていたと書いたが、小林さんは「五十句競作」に応募すると共に、高柳重信のところに出入りしていた。小林さんの作品を高柳重信は、高く評価していたそうである。しかし、「五十句競作」に入賞することはなく、次席になった。このことが、もとで、高柳重信に対し、不信感を持つようになった(このように書くと、高柳重信に選ばれなかったということが、不信感の原因であるかのように読めるかもしれない。しかし、当時の小林さんの話していることからすると、このころ活動していた前衛が本当に詩的な作品を作っているのか、ただ、難解な作品を作っているのではないかと疑問に思っており、この疑問が噴出したというのが真相に近い。)。
小林さんは、このことから、新しいタイプの俳句活動をしようと考えた。その元になったのが、東大学生俳句会の五一世代が発展させた題詠という方法である。小林さんによれば、題詠だけでされている句会はないというとであった。小林さんは、新しい句会の理念について、俳句というのはいわば「大人の遊び」である、あるレベルの作家が集まり、その言語的な体験を総動員して、その場で出された題をもとに、俳句を作り、出された作品について、鑑賞し、豊かな文化的な場ができる、そのようなものであるべきであるというようなことを話していた。
この後、小林さんの一連の活動があって、現在では題詠の句会は広く受けいられており、短歌にまでその影響は及んでいる。しかし、当時は、違っていたと思う。言葉から発想するというは全く考えられなかったのではないだろうか。もっとも、この予兆はあった。当時、言葉がすごく軽くなっており、ある言葉はみんなが誰でも同じ感情を共有であきる一つの物なり、出来事を指し示すのではなく、言葉から連想される様々なイメージだけが流通していて(そのように一つの言葉が多くのイメージをまとうことが認められるようになった。)、その背後にある意味がそれほど重大なものではなくなりつつあるような感じがあった。ある種の雰囲気が伝えられることが重要なのである。このような言葉の使われ方はどのような意味でも、喩えの関係が明確であることが前提である暗喩ではない。むしろ、前衛の言葉使いも一つの雰囲気の伝え方とされる時代が到来していたようである。少なくとも、当時は、前衛と伝統が、必ずしも対立するものではなく、同じようなものとして、見られる可能性が生じていた。
このような題詠だけの句会をする場所として、東京都心から少し離れた場所ということで、自由が丘が選択された。句会の会場を探すということで、東横線の自由が丘駅から田園調布駅にかけて、小林さんと歩き回った。その結果、自由が丘駅の都立大学駅に近い方にある「Mura」という喫茶店を見つけ出した。この喫茶店は、変わった喫茶店で、日曜の昼過ぎにならないと開店しなかった。店の中は、天井からドライフラワーが下がっており、音楽は、バッハが流れていたのを覚えているので、比較的静かだった。
この句会のメンバーであるが、もちろん中心的なメンバーは小林さんだったが、私が幹事役ということになった。句会の司会は、小林さんの推薦で、小澤實さんがすることになった。また、記録係として、日原君が入ることになった。その他に、出口聡子さん、小澤さんが推薦した蜂須賀薫さんが加わった。
句会は、毎月一回日曜日の午後に開くものとされた。
句会の名前は、題詠の句会ということから考えられたが、題詠に抵抗感があったようで、小澤さんが「仮に題詠と名付ける」というように話していたことから、「名付けの会」というようになった。
このようにして、「天為」平成二十年三月号で、寺澤さんが「自由が丘の句会」といっている句会が始まった。
第一回は、昭和五十五年の十二月だった。題は、具体的に覚えていないが、三つで、先に紹介した「Mura」で俳句を二時間くらいかけて、作った。その後、自由が丘駅前の別の喫茶店に移って、句会をした。このときは、評を零点句までしたのではなかったかと思う。その後、自由が丘駅周辺の飲み屋で飲んで、解散した。
小澤さんは、この会で司会を務めていたが、何回目かに結社の都合で、辞退され、名付けの会に出て来なくなった。
この会には、第一回の後に、森さんや寺澤さんも参加するようになった。さらに、いわゆる五六世代である山ア好裕さんや金子弘幸さんも参加するようになった。彼らが参加するころには、当初の一句一句批評するという方式ではなく、小佐田先生のゼミが終わった後の句会のように、評価する句に点を入れる「正選」と問題句であって、評価しない句に点を入れる「逆選」を組み合わせた方式になっていた。このやり方だと、「正選」でも「逆選」でも点数を集める句が出て来て、評価が分かれ、評価する人と、評価しない人とで、活発な議論になった。
最初の何回かは、「Mura」という喫茶店で、この句会は開かれていたが、日曜日の昼過ぎに行っても、開店していないことがあった。それで、名付けの会は、自由が丘駅前の喫茶店を二つ梯子して、開かれるようになった。会場が変わっても、句会が終わった後、自由が丘駅周辺の飲み屋で、飲んで、解散することだけは続いた。焼酎をボトルで注文して、みんなで飲んでいた。
この句会は、私が大学3年生になっても、続いていた。色々な題が出され、色々の句がたくさん作られ、作品の評は、勝手放題にされた。言葉だけを頼りにここまで言えるかというような作品評がされた。名付けの会の作品及び作品評は、何ものにもとらわれない自由なものだったということに特徴があった。
これまで、名付けの会のことを紹介してきたが、作品を一句も挙げていない。私は、幹事として、この句会の点数、選者が記載された清記用紙を預かっていたが、誰かに渡してそのままになってしまった。自分の作品で、名付けの会で作られたと分かるものがあるが、それを紹介しても、句会の雰囲気が伝わるものではないし、「原生林」の二十五号の日原君の「思い出すこと」に七句ほど引用されているが、これを紹介するのも、少し気が引けるので、一句も紹介しなかった。先の「天為」平成二十年三月号で、私が名付けの会の清記用紙を寺澤さんに渡したことがわかった。それからは、この面白い句会の雰囲気がある程度伝わることと思う。嬉しいことである。
名付けの会は、私が大学4年生になり、卒論や就職を考えるころに自然消滅した。(続く)