大屋達治句集『寛海』

      (1999年6月 角川書店刊)              

 

<句集評>     横井 理恵 

 

 

 大屋達治という俳人は、実は呪術師である。俳句という短詩によって、あれだけの大景を現出させることができるのは、氏が呪術師だからである。

 

  日蓮が妙と叫びし初日かな

  そのかみの遠流の安房の初日かな

  安房照らす黄丹のいろの初日かな

 

 氏が初日を仰ぐ時、言葉は安房の国讃めとなって現れる。初日の中に、そして言葉の中に神が在ることを、氏は信じている。踏みしめる足が安房の大地へ繋がっている一方で、氏の魂は古代から現代に遍在していて、安房国小湊に生まれた日蓮上人の声を聞き、律令制の春宮の衣服の色を透視する。呪術師だからこそである。

 

  蛤を焼く縄文の潮の香の

  (ほら、古代の記憶を持っていることを、ふと漏らしてしまった!)

  満ち潮の夜を載せ来る花菜かな

  捨てし田を豊葦原へ還しけり

 

 空気の中に何かの力が漲っていることを、呪術師は誰よりも強く感じている。日ごとの潮の律動、年ごとの繁茂のうねりを、眼前の景の中に見て取っている。

 

  なのはなの安房は進水式日和

 

 言葉は古代の神を宿すだけではない。近代現代の詩人の詩もちゃんと蔵している。ひらがなの「なのはな」を見て、この句を読む人は、「いちめんのなのはな」を目に浮かばせる。そしてその向こうに開けた海の輝きを見ることができるのである。

 さて、呪術師といっても、近寄りがたい神秘的な存在とは限らない。呪術師が俳句という詩型を選ぶ時、その出発点である「俳(おどけ・たわむれ)」を忘れてはいない。

 

  根の国を安房に抜けたる葱坊主

  月天心遍く大根照らしをり

  鎌倉を転がり出でし龍の玉

  能登七尾越中八尾金狐

 

 言葉に笑いを喚起する力があることを誰よりもよく知っているのも呪術師である。大真面目な顔で笑わせる、この格調の高い俳味。徹底的に遊ぶ精神が嬉しい。

 中には巧妙に隠されていて、うっかりすると見過ごしてしまう仕掛けもある。

 

  ぬばたまの月に射干種こぼす

 

 これは読む人が、「射干の種」の別名を知っていますか、と問われているのであって、油断がならない。他にも、密かに名前が折り込まれていたり、掛詞が隠れていたりと、いろいろな句(実は句にとどまらないのだが)があって、句それ自体としての鑑賞とは別に、仕掛け探しで二度楽しめる。

 

  寝待ちたる浜松に月あらはれず

 

 月にかかる枕詞「ぬばたまの」もそうだが、氏の句には和歌の伝統に育まれた詞が多用されている。しかし、ただその伝統に従っているのではない。和歌の伝統にも出発点があった。その出発の時にことばが有していた力を、呪術師はよみがえらせようとしている。「寝待ちの月」は単なる言葉だが、「寝て待っていた月」には生活の実感としての力がある。それらが和歌の詞であることを知って読めば、そこには、伝統の力を借りて言葉の奥行きを示そうとする俳人としての姿勢にとどまらず、古びた詞を新しくしようとする呪術師としての心意気が強く感じられるのである。

 

  三十階のプール揺るがし泳ぎけり

 大屋氏の体格のよさを見知っている人なら、さもありなんと肯き、しかる後にくすくす笑うであろう。こうした主観は、世界を楽しいものにする。呪術師の肉体は、まぎれもない現代人である。

 

  北国や花に急かるる田ごしらへ

  酒となる水やはらかき冬至かな

  花よりもかなしき葛の吉野かな

  金柑の種さみどりや松の内

 

これらの句に見られるように、現代人としての巨躯の中には繊細な感覚が宿っている。氏はそれゆえに、人一倍苦しい道を歩んで来られた。

 

  下総は谷津を出でざる霧ばかり

 

の句には、その苦渋がにじみ出ているように思われる。しかし、『寛海』巻末の二句、

 

 鬱の字の隙間に春の光かな

  雁字搦めのなか青きもの芽吹く

 

には、前途の光明が見えている。読者も、これらの言葉の持つ力を信じ、作者の未来を信じることができる。

 安房を愛する呪術師の前には、豊かな言葉の寛海が広がっている。国讃めは生命力の讃歌でもある。生命を讃え、悲しみを見据えて力強く歩む、この足取りこそ、俳句の呪力なのだ。