《連載》 句集を読むS
写生の原点
『夏山句集』
岸本 尚毅
明かに横縞一つ茎の石 松藤 夏山
茎の石とは茎漬けを漬けるための重石だ。なんと漬物石が
俳句になる。この石はどこから持ってきたのか、茎漬けをす
るのにちょうど手頃な石。一筋の縞がくっきりと走っている。
それがこの石の個性になっている。理屈をいえば、石の向き
を変えれば横縞は縦縞になる。
「明かに縦縞一つ茎の石」と詠んでもよいのだが、横縞と
いうほうが何となく石の据わりが良い。
写生に徹すると作者自身は真剣に詠んでいるのだが、妙に
滑稽な感じがする場合がある。この句もそうだ。この句のど
こが可笑しいのだろう。一つは、たかが漬物石の分際でお酒
落な横縞を持っていると思うと、何だかこの石が愛嬬のある
物に思えてくる。それが可笑しい。もう一つ、漬物石を一生
懸命写生しょうとする写生俳人の生真面目さが滑稽なのだ。
松藤夏山という名は今日、あまり知られていないと思う。
夏山は、四Sの頃に活躍したホトトギスの俳人で、客観写生、
花鳥諷詠という虚子の俳句理念の忠実な実践者だった。
蛆虫のちむま へ と急ぐかな
この句も真剣に蛆を写生した句。「ちむま へ 」は蛆の動き
をよく捉えている。ひたむきな写生の結果、たくまぬ滑稽味
が出た句だ。
これは昭和十年夏の作だ。その年に夏山は四十六歳で病死
した。死に至る病床での佳吟の一つと数えられている。最晩
年の傑作の中に蛆虫を写生した句があるということに、私は
写生派俳人の真骨頂を見せつけられたような気がする。
夫婦してかこかんどりや水の秋
夫が漕ぎ、妻が楫を取る。人間を見る眼差しが温かい。
封切れば溢れんとするカルタかな
新品のカルタの封を切る。真新しいカルタの札が箱から溢
れんばかりに詰まっている。句の調子からも心の弾みが感じ
られる。
晒井に蝙蝠安といふすがた
晒井とは井戸替えのこと。夏の季題だ。蝙蝠安は「切られ
与三」の芝居に出てくる人物。夏山の俳句にはこんな洒落っ
けもある。
白蓮やあちらを向いて薄みどり
蓮の花そのものを描いた句。あっさり詠んではいるが、巧
みだ。
虫干の寺宝に遊女苦役の図
複雑な内容を手際よくまとめた。
土用波かぶりし岩は滝をなし
土用波をかぶった岩の上から、ちょうど滝が落ちるように
勢いよく汐が流れ落ちるのであろう。写生の醍醐味を見る思
いがする。
秋袷木曾の旅籠の主かな
木曾の旅龍の主が秋袷を着ている。それ以上のことは何も
言っていない。ただ自ずから感興が無言のうちに伝わってく
る。それが俳句における季題と形式の力というものであろう。
神主の衣冠風ある御祓かな
「衣冠風ある」という描写の的確さ、そして、そのいくぶ
ん重々しい口調が神主の風姿にふさわしい。
禁鳥も二三かかれり小鳥網
一見すると散文的な報告をそのまま五七五にしたような句
だ。だが、このような素っ気ない表現が、小鳥網の現場の雰
囲気を読み手の脳裏に彷彿とさせるのである。そこには俳句
というものの寡黙な力があるのではなかろうか。
飼屋の灯いつもの如く並びけり
「いつもの如く」が良い。身近に見慣れた風景のなつかし
さと安らかさ。それをどう表現したらよいのだろうか。その
答えが「いつもの如く」である。
鳰の巣のさはりし指に水上る
鳰の浮き巣に指を触れたら、指を伝って水が上って釆たと
いうのである。この句はさすがに瑣末に過ぎないかと私は思
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うのだが、高浜虚子はこの句を評してこう言っている。 「こんな細かい学者の実験のようなことまでしても物を観 察して句を作れば、どんな事でも句になる。こんなふうに突 き進んだ写生の仕方は、独り我々ホトトギス句壇に在る諸君 だけの独特の舞台である」(赤星水竹居『虚子俳語録』)。 柿買の眺めゐる木の薄紅葉 柿を買う商人が眺めている木が薄く紅葉をしていたという のである。柿買いがやって来そうな風景、柿買いという稼業 をする人物、その場の天候などいろいろと想像が広がる。 土塊にくつついてゐる子藷かな 甘藷であろう。藷掘りをするとこういうことがある。「土塊 にくつついてゐる」の的確さを賞味すべき句。 ひかげりて皆打仰ぐ春の雲 日がかげることによって、人々は雲の存在に気づく。それ が春の雲らしい。何となく嬉しい句だ。 馬刀貝や浅蜊の笊に五六本 さっさっと大づかみに線描をほどこしたような句。 はこべらに頭掻き へ ひよこかな 「頭掻き へ 」が実に的確。 遠ざかる四国の春を惜みけり 四国から船で遠ざかりつつ春を惜しむ。大きい句だ。 舷に吹きはためける若布かな 過不足無い描写の句だ。見たものをそのまま俳句の形にし |
た句だ。ここに写生の原点がある。