《連載》 句集を読むS
強い心
福田 蓼汀『山火』
岸本 尚毅
あす越ゆる天城山あり狩の宿
萍の静かに閉ぢぬ船の道
まずは巻頭の二句が目を惹く。天城山の句のどっしりとし
た風格。萍の句の的確で繊細な描写。この二句の作風の使い
分けに、作者の力量がうかがわれる。
福田蓼打といえば山岳俳句が名高いが、第一句集の『山火』
では、作者の主観を抑えた、上質の写生句に私は注目した。
走馬燈言葉すくなに商へり
走馬灯を売る人の趣を「言葉すくなに」と捉えた。
豆柿や石ばかりなる山畑
石の多い、痩せた畑地であろう。豆柿が似つかわしい。
柿落葉日向をよぎる時はやく
大ぶりな柿落葉が日向を通過するときの意外な早さを見出
だした。むろん、
桐一葉日当りながら落ちにけり 虚子
という句が伏線にあるはず。
布袋草月の面を流れ過ぐ
水に映る月と解する。
湖の魚とつて渡世や草の花
「渡世」という語のニュアンスで見事に成り立った一句。
秋水や藻につく魚の針のごと
何の稚魚だろうか。こういう小魚を目にすることがある。
鯊釣や破れし船を波よけに
も鯊釣りの現場を生き生きと捉える。海辺で鯊を釣って過
ごす楽しさが伝わってくる。
秋祭とて沼渡舟旦より
秋祭りのため沼の渡し舟が朝から運行している。とはいえ、
ささやかな賑わいであろう。
月を見て戻れば月はわが軒端
月を見てわが家に帰り、もう一度静かな心持ちで月を仰ぐ。
こういう事柄は、誰もがそうしているのだが、あらためて俳
句の形になると味わい深い。何でもないように見えて、実は、
時の流れやそのときの雰囲気など、人の心に映る微妙なニュ
アンスを写し取っているからだ。
平明で余韻のある俳句のもつ深い味わいは、いつの世にも
通用するはずなのだが、このような句の存在はともすれば忘
れられがちである。高浜虚子が再三再四、生涯にわたって説
き続けた俳句の姿とは、まさにこういうものだったのだが。
ふるさとは大霞して城と畑
「ふるさとは大霞して」と大きく詠い出た一句の流れを「城
と畑」で、大きく受け止めた。
みちのくの宵の人手にさくらんぼ
みちのくの風土感。みちのく、宵、さくらんぼ、と一句の
焦点がさくらんぼという一点に向かって、なめらかに収斂し
てゆく叙法が快い。
誘蛾燈夜靄深くてまたたかず
「またたかず」ということを見届けるのが写生。
夏服をしんしん霧が通るなる
この作者にしては感覚の冴えた句。実感がある。
もたれたる壁のうしろの草雲雀
このような句は、我々が生きている時間と空間に対する、
何気ない、しかし、的確な刻印であろう。
高浜虚子は『山火』の序文にこう記した。「容易に個性の現
はれない作家は他日を予期することが出来る。つまり小さな
個性が早く現はれないで大成した暁には堂々たる作家となる。
これは私の常に見るところである。私はなまじ早く特異な句
を作る人よりも徐々として境地を拓いて行く穏健な作家に多
く望を繋ぐのである」と。
虚子は、このような眼で蓼汀をはじめ、写生にすぐれた俳
人を見出だし、育てたのである。
雪渓を罐詰転がりゆきぬ愉快
写生という手法は、ときとして、こういう自在で愉快な句
に逢着する。
竹箒疎なり椿を掃くに足る
古くなって傷んだ竹箒が「疎」なのであるが、落椿を掃くに
は十分だ、というのである。
いとけなき腕に種痘の華四つ
種痘の跡もまた、写生の対象である。
目刺焼く不運かへつて安らかに
「不運かへつて安らかに」という、健気とも諦観ともつか
ぬ詠嘆は客観写生の産物かもしれない。
私は、己の境涯をも客観に見据える精神の余裕と強靭さこ
そが、一見無思想とも思える客観写生という理念に内在する
精神性だと考えている。
三春も病床の向きかへしのみ
蝿を打つなすべきことは山のごと
などにも自己を客観視する強い心を感じる。
殺生といひつつ励む鳥屋師かな
焼け残る雛鬻ぐをあはれとも
なども、客観的な描写のゆえの力強さを感じる。
旅つづくゆふべゆふべの花白く
人たちて椅子の冬日もいつかなし
などにも静謐な力がある。
集中、とくに私が好きだったのは次の一句。
山の子は山の入日に懐手
「山の」を繰り返した調べに叙情が籠もり、「懐手」は季題
にして人物描写。叙情と写生が渾然一体となった句境だ。