『知命』俳句鑑賞

 

                   日原 傳

 

『知命』は、有馬朗人氏の第二句集である。牧羊社の現代

俳句選集Uの第三巻として昭和五十七年八月二十日に発行さ

れた。第一句集『母国』以後十年間の作品を中心とし、三百

六十二句で構成されている。今回は、句集『知命』の中から

随意に句を取り出してその鑑賞を試みる。

 

  街既に師走辛子を色濃く練る

 

 ふと気がつくと街には既に師走のあわただしさが漂ってい

る。もうそこにはある種のはなやぎと寂寥感が交錯する特別

な時間が流れているのだ。この句はその時間意識を辛子とい

う「物」、特にその「色」に焦点をしぼりこむことでうまく

定着させている。「色濃く練る」という破調のリズムが、駄

目押しの働きをして、辛子の濃い黄色を読者の眼に焼き付け

る効果をあげている。また辛子の粘りの質感をいかにもこの

句が感じさせるのもこの下の句の破調の力であろう。

 

釣瓶落しの日が首づりの縄の中

 

映画の中の一齣のような風景である。一瞬のアングルの面

白さ。縄にとらえられたのが釣瓶落しの日であるだけに急か

されるような緊迫感がこの句には纏わりついている。

 

  日向ぼこ大王よそこどきたまえ

 

 古代ギリシアの哲学者ディオゲネスがアレキサンダー大王

に欲しいものを聞かれて、そこをどいて日向をくれといった

故事。伸びやかに書きつつ、うまく十七字に収めている点が

手柄である。『知命』の収録句には大きな振幅があり、その

極として物語り性の導入がある。そこには『母国』と強く繋

がる系譜があるが、この句はその中でも伸びやかに突き抜け

た点で特異な存在である。

 

  冬の壷船こぎやまぬ漕刑囚

 

 張りつめた寒気の中にlつの壷が存在している。漕刑囚は

その壷に描かれているのであろう。「船こぎやまぬ」という

措辞がその絵の持つ力動感をよく伝えている。しかもその絵

の漕刑囚達は、何百年あるいは何千年という長い時間憩うこ

となく船を漕ぎ続けているわけなのだ。そこに一寸したユー

モアと漕刑囚に対する憐れみの情がかもしだされているので

ある。

 

  冬に入る新しきもの柩のみ

 

 句の中心に光りを感じさせる一句である。新しく美しい柩

の存在。それをつつみこむこれから冬に向かおうとする立冬

の日の外気。柩と外気の双方に清澄感がみなぎっている。

「柩のみ」という断定の口調が他の物の存在を後方に退かせ、

光りとともにある柩の存在を強く印象づける方向にはたらい

ている。

 ここでは縷説しないが、「死」あるいは「墓域」に対する

強い関心は朗人俳句の一つの特徴である。

 

  にほやかに火事の火琴を焼きつくす

 

 この句を読んで、塚本邦雄の「楽器店燃え落つる間をオル

ガンの燥薗薇色にこらえつつあり」という短歌を思い起こし

た。火事の中の燃えた楽器を詠んでいるという点が共通して

いる。しかし、両者を対比してみるならば、塚本の歌に詠み

込まれているのは動の世界であり、掲出句の方は静の世界で

ある。「にはやかに」という表現が、まだ残っている火の息

吹を感じさせる。触れれば壊れてしまうであろう亡びの美し

さとして琴はある。

 

  海峡に溢れ夜店の灯なりけり

 

 「香港」での作ということである。中国の南方の海岸沿い

の街は夜の遅い街が多い。海南島の入口の海口、べトナムの

向かいにありベトナム華僑の難民キャンプのある北海などは

租界風の建物の続く通りに夜店が溢れて、いつはてるともな

く人波が続く。社会主義の街においてそんな具合である。ま

して資本主義の柑禍たる香港の夜はなおさらのことである。

一皿いくらで貝やら海老やらを売り、その場で炒めてビール

と共に出す夜店がある。衣料、時計を売る店が殊に多い。本

屋む出る。こうして暑い夜をやり過ごすのである。香港の繁

華街は九龍半島側と香港島側に分かれる。その間にフェリー

の頻繁に行き交う、数分で渡れる海峡がある。作者はどちら

側から海峡にまで溢れる灯をみたのであろうか。香港では啓

徳空港が市内にあるためにネオンの点滅は禁止されている。

その分豊かに見開いたままの灯は海峡にまで溢れるのであろ 

う。

 

  道家廟鉄扉を閉ぢてより外寝

 

 同じく香港での作。中国では南方ほど道教の信仰が厚く、

参拝者も多い印象がある。香港にも道教の廟は多い。ただ土

地が無いために普通の人家とならんで狭い間口を構えている

ような所もよく目にする。うっかりすると見落としてしまい

かねないたたずまいである。この句の道家廟もそのような小

さな廟の感じがする。夜も更けて廟の鉄の扉を閉じた。その

後どうするかとみていると、あにはからんや外にしつらえた

床にころりと構になってしまったのである。のんきな話であ

る。

 

  逝く年の星ほど切符の鋏くづ

 

 星と切符の鋏くづを結び付けた斬新な詩性がこの句の命で

ある。おびただしい鋏くづがあるからには、人の乗り降りの

多い都会の駅の改札口での光景であろう。歳晩で帰省する人

もいて都会にやや空間が目立つ時期のことかもしれない。夜

空に心を馳せたくなる時節でもある。一瞬の直観の切れを感

じさせる一句である。

 

  針箱や日輪秘めし花の種

 

 類句としては「仏壇のひきだしからも種袋 虞江八重櫻」

「釘箱から夕がほの種出してくる 飴山實」等がある。掲出

句は、「日輪秘めし」と言ったところに工夫がある。花の種

は縞模様のついた向日葵の種のことであろう。句自体は春の

句であるが、こう表現されると針箱に収めた種の中に本当に

夏の太陽やそれに向かい合うひまわりの光景を閉じこめてい

るような魔術めいたイメージがでてくる。「針箱」にもなつ

かしい風景としての情がある。

 

  蜥蜴去る廃墟の街の酒屋より

 

 ポンペイでの作。廃墟の酒屋はどのような姿で残っている

のであろうか。ある時は恋が語られ、ある時は喧嘩がおきと

いった具合の人々の喜悲を折り込んだ店は過去の時間を夏の

太陽に晒している。蜥蜴がさっと作者の目に入って消えた。

廃墟の街の乾いた地上を走る蜥蜴の存在が、確かなイメージ

として残る。

 因みに、朗人俳句では「晰暢」や「蛇」がしばしば詠まれ

る。特に『知命』が多く、『母国』が次ぐ。第三句集『天為」

は一句ずつあるだけで最も少ない。参考までに列挙してみよ

う。まず蜥蜴。「午後深く蜥蜴に話しかける吾子」「晰場走

り去り時計の針となる」(以上『母国』)「青蜥蜴もてカイ

ザーの髭とせよ」(『知命』)「大蜥蜴昂然と見る人の群」

(『天為』)。次に蛇。「古墳よりひたすらに去る蛇に遇ふ」

「蛇達も眠る月食の夜の古墳」「蛇殻をぬぎ原罪を地にのこ

す」「蛇等地に満てよ墓石も地に満ちたり」(以上『母国』)

「蛇死すや己の円座解き放し」「古墳去る蛇のはやさに追ひ

つけず」「収税人蛇冬眠の輪をほどく」「盲目の蛇の円座に

傾く日」「穴まどひ見て旧約の書を閉ぢる」「蛇穴を出でさ

りにけり三輪の山」「蛇よ走れ吾も汝も反倭」「教会の窓よ

り入る冬の蛇」(以上『知命』)「冬眠の蛇に滅びし社あり」

(『天為』)。三つの句集の世界の違いがここにもほの見え

ている。

 

  寒鴉犬の屍を食ふ飛鳥村

 

 凄まじい情景である。上五中七が強い表現なので下五は生

半可な言葉では上を支えきれないであろう。「飛鳥村」はそ

の点成功している。「飛鳥」という言葉に繋がる上代の精神

には、このような凄まじさをそのまま受け止め肯定する力強

さ、おおらかさがある為であろうか。

 

  群はなれ泳ぐ誤植の蝌蚪一つ

 

一群の蝌蚪。その集団として誇示される生命力は恐ろしく

感じられる時もあるはどである。ところが一匹だけその群を

外れて泳いでいる天邪鬼がいる。それを「誤植」だととらえ

て断言した点に何ともいえぬ表現上の切り込みのユーモアが

漂う。

 

  北冥に滝あり天を覆はんと

 

 「北冥」と言えば、なにを置いても『荘子』逍遥遊篇の冒

頭の一句、「北冥に魚有り、其の名を鯤と為す」を思い起こ

す。しかし、この句では北のはての暗いところに登場するの

は魚ではなくて巨大な滝なのである。そのずらしの遊び心が

楽しい。アイスランドでの作とある。アイスランドに北冥を

見つけた点も手柄といえよう。

 

  風神の袋の白き菜種梅雨

 

 神社の板製の額にでも描かれた風神画であろうか。彩色は

全体的に剥落しているのだが、白く塗られた風神の袋の箇所

はくっきりと色が残っている、そのような情景が一読して目

に浮かんだ。神社の周囲には春の柔らかな雨に濡れながら菜

の花がその明るい黄色を目立たせている。風神の図の渋い白

と菜の花の輝く黄色とが微妙に呼応しでいる感じを受けた。