坂本宮尾句集 『木馬の螺子』
(2005年9月 角川書店刊)
<句集評>
猫のための坂本宮尾論
坂本宮尾句集『木馬の螺子』
齋藤 愼爾
外国語を修得し、その精神を血肉化しようとすることにはどんな意味があるのだろうか。日本の風土を離れ外国に留学することは一個の人間の生の実存的根源にどのような陰翳をもたらすものなのか。英文学者や仏文学者、独文学者とも異なり、常に表現という創造行為に関わる俳人の場合、屈折や混沌を覚えることはないのだろうか。
私はいま、夏目漱石や永井荷風、高村光太郎らを脳裏に浮かべながら、坂本宮尾氏のことを考える。坂本氏はロンドンに留学した後、ヨーロッパを経巡り帰国し、現在大学で英文学を講じる英文学者にして俳人である。氏もまた先駆者たちが西欧と日本との眼も眩むばかりの文化や意識の落差に絶望し苦悶したように、劣等感や隔離感に苛まれたのであろうか。
無論こういう問いには、いまは「脱亜入欧」が喧伝された明治ではない、グローバライゼイションによって地球上の文化の物質化の進んだ、二十一世紀だ。人々は西欧の生活様式に慣れ、その気候や習慣に馴染み、西欧の発想や論理を理解し、西欧に同化している、と反論が出されることはわかる。だが本当のところはどうなのだろう。錯覚か自惚れに過ぎないのではないか。反証に二人のノーベル文学賞受賞記念講演、川端康成の『美しい日本の私』(一九六八年)と大江健三郎の『あいまいな日本の私』(一九九四年)を挙げて象徴させてもいい。
大江は、「開国以降、百二十年の近代化に続く現在の日本は、根本的に、あいまいさ”ambiguity”の二極に引き裂かれている(略)そのあいまいさに傷のような深いしるしをきざまれた小説家として、私自身が生きている」と言う。「現人神」としての天皇を頂点に置き、西欧に追いつこうと近代化の道を邁進した戦前の日本は、戦後、再び近代化と民主主義の道に出発したが、結局「根本的にあいまいさの二極に引き裂かれている」との発言には説得力がある。
さてそこで坂本氏である。氏もまた西欧思想の生きた理解を通じて、日本近現代の「あいまいさ」を知覚したことは疑いない。氏は<内的経験としての留学>から、「一身にして二生を経るが如く、一人にして両身あるが如し」(福沢諭吉)といった断絶のある生を自らの最も深い根源に刻むことになったのではないか。そう考える根拠は何か。第一に氏の自然を見るまなざしは陰湿的な日本的美意識に濡れていない。未知なる外に投げ出され無に晒された深淵に堪える<出存>existenziaという孤独で不安な俳人の在り方を体現している。外に立ち生の限界に身を置かなければ、氏のように内なるものの本質essenciaを見ることは出来ない。その作品はどこか異教的な響きがある。過去のある時期、氏は<生>を放棄したことがあるのではないかというあらぬ憶測すら抱かせる。それが異教的とも断念の響きともなって私を衝つのである。
「星流る失楽園のはじめより」「靴縫つて青いちじくの下に棲む」「水草生ふ水の系譜は涙より」「はるかなる天動説や畑を打つ」「海峡の灯やひとの世の走馬燈」(以上『天動説』所収)「小さく酸つぱく紅しイヴの掌の林檎」ーーこれらの句は旧約やミルトンの叙事詩の世界を彷彿させる。楽園追放後の人間の原罪と恩寵が通奏低音として響いている。句集に『天動説』と命名するあたりも、反<花鳥諷詠>的といえよう。方法としてのリアリズム、客観写生がどれほど俳句の世界を閉塞させてきたか。客観的写実で描出されるものは、対象の本質ではなく現象にすぎない。対象の本質は常に現象の背後に隠されている。坂本氏も「作品に描かれる真実は、事実と一致するとは限らない(略)創造し、心のなかで体験することによって、そのひとには現実性をおびてくることもあるからだ」と言う。
吹きちぎれしは朝顔のまなぶたか
初蝶やわがたましひを放し飼ひ
心臓とこころのあはひ蝶生る
門火焚くどの道筋を来たまふや
黒揚羽網膜に穴あけにくる
たましひの閂はづす霜夜かな
凩や星の歴程つまびらか
『木馬の螺子』中の珠玉である。旧作「春眠の人たましひをどこに置く」を含め、「たましひ」を自在に完璧に定着して見事である。「朝顔」など、ブニュエルの映画『アンダルシアの犬』の冒頭、眼球を剃刀で引き裂く場面よりも衝撃的である。
外套の裏は緋なりき明治の雪 青邨
沈みゆく海月みづいろとなりて消ゆ 青邨
明治てふ紫紺の時代梅雨の蝶 宮尾
春暮るる海月の包む水のいろ 宮尾
青邨句への挨拶句。青邨の<明治>からは、明治天皇の軍服の襟章、日露戦争、旭日旗、赤絨毯のイメージ。 宮尾句からは樋口一葉、紺袴、紺絣の匂いがする。但し「必要に応じて、対象のデフォルメも、イメージの飛躍」をも試みると坂本氏が言うわりには未消化の句も散見する。「夕東風や惑星と月照らしあふ」「蒼き蒼き夢を見てをり冬の蝶」「秋の雷否の一語をたいせつに」「聖樹の街笛吹き男現れさう」は、上五(季語も含め)は一考を要しないか。「惑星と月照らしあふ」の輪郭を鮮明にするには「夕東風」は力がない。私なら<白れんや惑星と月照らしあふ>としたい。「蒼き蒼き」も効果的とは言い難い。<蒼白の夢を見てをり冬の蝶>でもロマン性は失われはしまい。「聖樹の街」では平凡。<もがり笛>ではつきすぎゆえ<星踏んで笛吹き男現れさう>とか。「秋の雷」は素直に<冬の雷否の一語をたいせつに>でいいのでは? 「否」は苛酷な冬季にこそふさわしい。坂本氏の破天荒な想像力の奔放を知っているファンは、「朝顔の種採るころの根岸かな」や「辻芸人露の銀貨を身ほとりに」や「鳥雲に木馬の螺子を締めなほす」の佳品にも、いっそ<朝顔の種採るころの彼岸かな><辻芸人露の銀河を身ほとりに><鳥雲に木星の螺子を締めなほす>くらいの詩的飛躍を期待したことであった。
坂本氏の俳号宮尾(みやお)は、愛猫の鳴き声から名付けたと聞く。R・P・オードラによれば、猫には二種類の発声ができ、「ミャーオ」という鳴き声だけでも約六十の違った音声を出し、それぞれ音色・強さ・抑揚によって、さまざまな特定の意味を表しているという。「ゴロゴロ」という内的発声法については、まだ不分明らしいが、おおむね満足しきって寛いでいるとき発せられるらしい。坂本氏の猫の如く自由で、しなやかな句は多分「ゴロゴロ」で応答されたであろう。<猫のための宮尾論>などと擦り寄っても総毛を逆立て威嚇されるのが精々だろう。モンマルトルのキャバレー黒猫(シャノワール)のおかかえピアニストだったE・サティは、犬のための前奏曲を作ったが、本当は猫のための音楽家だった由。猫は本質的な孤独を知っている動物である。私たちは須<く猫にミャーオーと鳴かせるための句作りに研鑚を積まねばなるまい。
(平成18年天為4月号掲載)