天為二百号記念特集
「検証・戦後俳句」
もう一つの俳人の系譜
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中島斌雄論 前期分析
ー 分析俳句序説(1)として ー
西村我尼吾
現代俳句を分析していく上でどうしても原典に当る必要があり、他者の研究の成果をそのまま引用するわけには行かない重要なキーパースンがいる。中島斌雄はそのような作家である。芭蕉研究の泰斗であるばかりではなく、「現代俳句提要」(その集成としての『現代俳句の創造』)などの著述を通して子規以降の現代俳句の基本的な論点をしらみつぶしに研究し論じてきた。
斌雄の業績を前期後期とに分けるならば、前期は第三句集『火口壁』の昭和三十年代の頃まで、作者四十代前半の頃であり、社会性俳句の旗手などとして戦前・戦後を通じて俳壇を代表するオピニオンリーダーとして目覚しい活躍をした時期である。後期はそれ以降二十年に亘り現代俳句のあらゆる論点を芭蕉研究の成果を踏まえ、しらみつぶしに検討し「新具象主義俳句」を打ち立て、その実践に生涯を捧げ、『現代俳句の創造』という俳句形式の新しい可能性を齎した、俳句史に燦然と輝き、高峰をなす画期的な理論書を完成させた時期である。今回は分析俳句序説の連載の第一回として中島斌雄の前期業績を俯瞰してみることとしたい。
前期作品の分析と鑑賞
第一句集『樹氷群』は、開戦の年昭和十六年に「昭和俳句叢書」として甲鳥書林から出されている。叢書「刊行の辞」には次のような紹介がある。
「しかし形式の極端な単純さと季語の拘束に多く由来する方法採択者が充満した結果、所謂月並俳句が漸く顕著となり俳句の詩性を甚だしく希薄化し、真実性を忘却して一途堕落の道を辿るに至り、唯一の誇るべき大衆詩の品質を毀損するに役立つ奇怪な現象すら生じるに至った。この由々しき国民詩の一大事を真実の詩精神に立ち返らしむべく努力して来たことが子規初め明治以来の心ある俳人の運動であった。本叢書の著者達はすべてその子規の精神を継承実践して以て昭和俳壇をして日本民族詩の精髄たるを首肯せしめるであろう期待を荷ふ選士である。大いなる自信を以て世に薦める所以である。」
収録されているのは斌雄を含めて十名、加藤楸邨、東鷹女、石塚友二、川端茅舎、石田波郷、松本たかし、篠原梵、西島麦南、中村草田男の名が並ぶ。
斌雄は、その時すでに十五年の作句歴を持ち、中学生の頃から小野蕪子の指導を得、東大文学部国文科入学後、東大俳句会で虚子の指導を受けた。「馬醉木」に投句、秋桜子の指導も受けた。草田男との付き合いは東大俳句会入会と同時に始まり、国文科で教室を同じくし、共に、東大俳句会の幹事を務めた。卒論は「蕪村の研究」。その後、「鶏頭陣」の編集を担当し、昭和十一年に、貞弘衛、堀徹、戸川啓一郎と同人誌「季節風」を創刊。伝統俳句と新興俳句の功罪得失を凝視し、創刊宣言において結社主義を批判し、客観写生ではなく現実主義に立脚して作句することを標榜した。
当然のことであるがその後、「ホトトギス」「鶏頭陣」から離れ、「定型への懐疑」を発表し、俳句形式自体の意義を根底から考える二年間の第一期考察期に入った。斌雄の再起動を促したのは、草田男、楸邨、波郷などによる人間探求派の俳句運動であり、過去の自分との訣別を決意して斌雄は「昭和俳句叢書」に参画したのである。
1. 『樹氷群』の時代
『樹氷群』形成の過程の中にその後の斌雄の俳句に対する取り組みの基本姿勢のようなものが見て取れる。
(1) まず、基本となる王道に果敢に挑戦する。不易流行の流行の最前線に身を曝しその精髄を極める部分といえよう。
(2) 次にその流行を流行たらしめているものが生み出す矛盾を発見する。
(3) その矛盾の背後にある本質を見極めようとする。
(4) それを克服する理論の形成と作品による実践を実行する。
このような試行錯誤を経て『樹氷群』は出来上がっており、斌雄の作品は常に時代の読者の一歩先を進むことを心がけている。それは、時代を越えて残りうるものは少なくともその時代の前衛でなければならないという思いが、この時期、蕪村から芭蕉へと関心の力点が移行するなかで、形成されたのではないかと筆者は考える。そして斌雄は俳壇その他の流行の評価には周到に耳を傾けるのではあるが、極めて大胆に一気に恋々とすることなく、沈黙と熟考の考察期間を持つのである。『樹氷群』を出すまでに二年間の空白があったが、昭和三十年刊行の第三句集『火口壁』から第四句集『わが噴煙』までの間は、約二十年のインターバルがおかれている。
@『樹氷群』前期 昭和十一年まで
基礎的な描写力の鍛錬に努めた時期の作品であり、斌雄が克服すべきものとして総括した作品群である。
初暦イエスパウロの道(ことば)あり
堰に來て光りまぎれし菜屑かな
陽炎にどうとたふれて勞れけり
鷹ゆきて靜かに蒼き峯のそら
凧の空獄舎(ひとや)の空にとなりたる
炭ついで一つの悔に觸れにけり
樹氷群黙せり吹雪天に鳴り
蜥蜴かなし尾の斷面も縞をもつ
作者二十代の作品からなるこの句集は、明治時代の旧制高等学校で学んだ、教養豊かな先輩達である「ベストアンドブライテスト」が、言い換えれば時代の将来を期待される若者が、文学の持つ力を信じながら清冽に打ち込んだものである。これらの作品は若者が通るべき青春の門のようなものである。しかし現代俳句は、七十年前のこのような世界をはたして超えているのか、疑問を抱かざるを得ないこともある。
A二年間の考察期間を経た『樹氷群』後期
昭和十四年、十五年の作品
朝燒やラヂオ散りにしひとの名を
螻蛄(けら)更くる酒場にふふと嗤ひ聲
霧の灯の街底にして兵醉へり
屋上の兒らの畫冬の甍のみ
父は神に子は冬赤き指吸へる
兒の軍歌意味なしなさず寒き落暉
朝燒へ朝燒けへ兵の貨車退(すさ)る
妻病むとわが割る氷夕燒す
花火高し遺族の折に鮭一片
未来に恐れと希望のないまぜになった思いをナイーブに表出しているのが特徴である。東大学生俳句会「原生林」の作家達が、学園紛争の中で懸命に作句していたときの作品と、時を超えて通じ合うものがあり、私も駒場で中島斌雄の作品に接したときの不思議な切実さを思い出す。
ここにある作品には、単に清冽と呼ばれるものを超えたものが表れている。ノブレス・オブリージュとでもいいうる内面の葛藤を有する知性者である斌雄の作品には、人間探求派の人々に共通するヒューマニズムの思いが戦時下という特殊な状況下で表現されている。表現の自由が完全に保障されない状況下で俳句という詩でものを語ろうという若者の純粋な決意がみられる。
2. 「麦」創刊以降『光炎』『火口壁』の時代
昭和二十一年「麦」は創刊された。「鶏頭陣」の有志たちが支援してのスタートであった。前後して創刊されたのが、「浜」(大野林火)「万緑」(中村草田男)などであるが、「麦」には多くの若者が拠った。二十年代の後半には大学生であった寺山修司も麦雑詠「黒土帯」の投句者であった。
「麦は大地であり、季節であり、生活である。われわれは大地と季節との契合の上に俳句を生むことを念願する。」
この時期に斌雄はまず@「俳句の本道」として一詩、二生活、三自然、四把握、五表現、六道、の論点を整理したうえで、A「実体への肉薄」を主張している。
俳句の本質を季を詠うことではなく、いわば「季」を在らしめている「実体」へ肉薄することであるという鋭い指摘をしている。それは「造化」という宇宙法理のことかもしれないが、その「造化」も人間の内面により認識可能となるのである。詩人の吉田一穂は、このことを「人間は言葉によって神まで作った」と述べている。この指摘は極めて重要なポイントである。後に対馬康子が俳句の本質は「関係の形成」にあると言う主張をおこなっているが、基本は斌雄のこの基本的指摘に由来するものである。風土の形成も同じであるが基本は「人間」の内面であり、それとの関係を通じて「季」も「風土」も存在するのである。
@『光炎』の時代 昭和二十一年から二十三年まで
傷の指しづかに疼(いた)む秋の蝶
鵙とほく鳴き黒板に芭蕉の句
春干潟生くるものみな砂色に
月浪を出づ身ほとりも沖も闇
客の背の蔦の黄落世を語る
裂け目より柘榴眞二つ汝(な)と分かたん
冬の鳥射たれ青空青く遺る
讃美歌や揚羽の吻(くち)を蜜のぼる
昭和二十一年「中央公論」に発表された桑原武夫の「第二芸術論」は俳句形式に取り組む全ての作家にとって「俳句とはなにか」という根本的な問いと対峙することを求めた。
前句集『樹氷群』の自跋終わりに「本来芸術作品は、それ自身をして語らしめなくてはならない。」という桑原論文に対する回答を用意していた斌雄が「俳壇の荒廃をこの手で深耕しようとする使命感を見る」(藤田湘子)との評言を得た句集が『光炎』であった。
「 光炎や切株こめて麥長(た)くる
見渡すかぎりの麦畑である。ところどころに根深い切株を残したままの開拓地。土も痩せていようし、霜雪もきびしいにちがいない。しかも麦は伸びに伸びて、それらの切株を蔽いつくし、中にはもう若い穂を見せはじめたものもある。そして駈け過ぎる風筋を示して一せいに吹きなびき、そのたびに天日をかえして照りかがやくのである。光炎―口をついて出て来たのはこのことばであった。この一句はわれながら拙く、私の心うたれた状景をさながらには描き得ていないようである。しかもなお私がこの句に愛着を覚えるのは、この句がそうした逞しい麦の成長を通して、人間の力強い営みを表現しようとする意欲の上にたっているからにほかならない。今の私は―実際には力およばないのだが―つねにそういう作品を得たいと念願している。この句集に『光炎』と題したゆえんである。(以下略)」
この短い序文の中に、戦後の荒廃から雄雄しく立ち上がろうとする人々への賛歌、それら全体を自己の内面に結晶させようとする詩魂が見て取れる。
A『火口壁』の時代
『光炎』の時代に主張した「実体への肉薄」を理論的に総括する形で「現代俳句の主問題」を明らかにした。一・俳句の明るさと暗さ、ニ・俳句と人間、三・俳句とリアリズム、四・詩の高さ、五・定型感覚、六・主観傾斜、七・単純化、八・有季・無季、九・俳句の選、十・新風待望。それらの論点を整理していくうえで、芭蕉が求めた「新しみは俳諧の花なり」という思想が斌雄のうちに「新しい俳句」の創造への強い欲求を呼び起こした。その実現のための自己革新の衝動に駆られることになる。ここまでは、前人の歩いた道のりであったが、ここからは、いよいよ前人未踏の領域にさしかかりつつあった。
この頃出されたのが第三句集の『火口壁』(昭和二十四より二十八年までの作品)である。
塵労の胸より雲雀鳴きのぼる
置手紙西日濃き匙載せて去る
或る記憶熱風道の幅に来る
穂草抽きむ凡百(ぼんぴゃく)の詩は捨てん
子へ買ふ焼栗(マロン)夜寒は夜の女らも
雲秋意琴を賣らんと横抱きに
稻架の棒芯まで雨を吸ふ頃ぞ
『火口壁』のあとがきに、「私たちが生活のただ中に俳句を生み出そうと念ずるとき、そして私たちが社会への強い関心を以て日々を生きてゆくとき、その作品に社会の倒影が見られ、社会への批判が生まれるのは当然であろう。それは求めずしても至るべきものである。ただ、それは言うまでもなく俳句作品として力強く成立うるものでなければなるまい。(以下略)」と新しい俳句の具体的形として「社会性俳句」の作品群が登場することになった。
しかしこれは、不易流行の最前線につねに身を晒す斌雄にとっては、必然の帰結であった。まさに時代は高度経済成長へ突入しようとすると同時に社会における諸々の矛盾が顕現し、人間性の疎外が問題となり、労働問題や階級闘争の熾烈な情況を迎えていたのである。戦争の時代に俳句で志を表わそうとした斌雄は当然のごとく俳句で社会の現実に挑戦しようとしたのである。
「社会性のある俳句とは、社会主義的イデオロギーを根底に持った生き方、態度、感覚から生まれる俳句を中心に、広い範囲、過程の進歩的傾向にある俳句をさす。」(沢木欣一)
しかし社会性俳句が文学の根底においた人間関係の矛盾や理念そのものが当面の政策・改革等により克服されていく過程で、結果的にはベルリンの壁の崩壊に象徴されるように、マルクス・エンゲルスが「共産党宣言」で高らかにうたいあげた階級闘争による労働者の革命実現というわけにはいかなかった。手元にある大月書店刊行の「マルクス エンゲルス文学・芸術論」をひもとくと、この時代は、真にそれが「幻想」ではなく「理想」として人々の心の一部を形成していた時代であったのだという感懐を強くよびおこす。そして駒場でマルクスの「資本論」とマックスウェーバーの「宗教社会学論集」の両方の輪読を続けたことをなつかしく思い出す。
このような社会の「流行」の最前線を文化的な面のみならず、政治・思想・社会体制も含めて認識の対象にするという態度は正鵠を射ており、優れた着眼である。しかし、イデオロギーに基づく表現(詩的にはステレオタイプ的表現とならざるをえない。)は現実の沈静化とあいまって、必然的に「月並み」に陥ってしまう危険を孕んでいた。したがって社会の進展とともにその認識の核を変える必要がある。労働争議、階級闘争という社会的現実はなくなっても詩的救済を求めるニーズやそれとは次元を異にする社会性の問題は存在する。斌雄は真剣に文学の不易は何かということを流行の中に模索した。しかし今では当たり前となっている、宇宙的規模、地球規模にまで俳句認識の射程を拡大し、それらを社会性の問題という認識のレベルを一段上げ、「新具象俳句」への提唱へと実現させるまでには長い時間を要することになった。
その過程で、「新しい俳句を求めて」「社会性俳句の方途」「社会性俳句と文語表現」「俳句創造への道」と俳句における新しい視点の提唱を積極的に続けた。「心の地色」「見えないものを」「景を奪う」「感覚の門」「遥かな完成を期す」「息づく思想」「二重の世界」「変形の原理」「認識の表現」「暗喩ということ」「新しい象徴性」。それまでの評論とは次元を異にする、それまでの俳句の世界では体系的には論じられてこなかった論点の摘出に画期的な活動を果たした。
そしてその理論的深まりと反比例して現代俳句の停滞と自己の俳句革新の必要性が斌雄を追い込んでいくことになった。新しい俳句の創造のために斌雄は、長い第二期考察期に入っていくことになる。そのことについても次回に述べることとしたい。
参考文献
各句集の他、『中島斌雄全句集』(一九九〇・麦の会)
『現代俳句の創造』(一九八一・毎日新聞社)
『中島斌雄の世界』(一九九二・梅里書房)
『中島斌雄俳論集』(一九九六・麦の会)
『句のこころ』綾野道江著(二〇〇六・梅里書房)
『国文目白』第十七号・綾野道江「中島斌雄句業」