12月15日(土)晴天 [吟行地] 本能寺・本能寺、本性寺、矢田寺、
誓願寺、誠心院、寅薬師(西光寺)、蛸薬師
逆蓮華(安養寺)、立江地蔵尊、錦天満宮、染殿院、南座、錦小路
佐藤博子 文責
☆福永 法弘 先生をお迎えして☆
参加者 :西脇はま子、 中村光男、 室 明、 藤沢恭子、 高橋紀美子、 永井玲子、 相沢恵美子、 染葉三枝子、
佐々 宙、 中嶋昌夫、 森野美穂、 合田憲史、 合田智子、 井上澄江、 原道代
スタッフ:佐藤律子・佐藤博子 (順不同)
句会 :投句・・5句 選句・・5句
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------- 福永先生の吟行コース -------
誰でも知っている名前ながら、吟行として歩いたことはないであろうコースを考えてみました。 観光寺院ではない、町中の、生活に密着した寺社巡りです。 題して、「年の瀬の京都ど真ん中散策」。
寺町京極、新京極、錦市場とその周辺の寺社を歩いて回ります。疲れたら、途中で抜けてコーヒータイムとすることも容易ですし、お昼の場所までも近いです。
集合場所は、本能寺。(地下鉄東西線、市役所前駅すぐ)そこの資料館は朝9時から開いていますので、適宜集合いただき、資料館や信長の供養塔などを見て、みんなが集合するまで自由に句作して待っている。 そして、10:00に境内で集合し、すぐに出発。
寺町京極3寺:本能寺、本性寺、矢田寺。 新京極8寺社:誓願寺、誠心院、寅薬師(西光寺)、蛸薬師、逆蓮華(安養寺)、立江地蔵尊、錦天満宮、染殿院。 染殿院から四条通りに抜け、そこから寺町通に戻って、錦小路に入ります。 錦小路はすでに「年の市」の風情でしょうから、年用意の句などが作れます。 錦小路を柳馬場通りで南に折れ、四条通りを渡って、綾小路通りまで行き、西に折れて、仏光寺、因幡薬師を吟行。南座を四条大橋から眺め、その後、新町錦小路の、「膳処漢ぽっちり」まで行くコースです。
みんなと一緒に歩くことも、特に気に入ったところで抜けて長居することも、先回りして待っていることも、それぞれ自由にできる、町中散策です。 距離は2キロ弱、2時間半ぐらいかけてゆっくり回る感じです。
福永法弘 作品 南座のまねき北向き北颪 向きかへてまだ寒鯉になり切れず 冬ぬくし蛸に身を借る撫で薬師 式部寺の軒端の梅のまだ冬芽 福の神の臍の繰り傷年詰まる |
西脇はま子 |
染葉三枝子 冬うらら京極杖屋を横に見て 往生の道問ふ式部白椿 |
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佐々 宙 |
高橋紀美子 三足の蛙香炉や年惜しむ はんなりと勧める海鼠年の市 |
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室 明 肩越に錦小路の鱓買ふ 貫ける「錦」の鳥居年送る |
藤澤恭子 |
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相沢恵美子 道を問ふ寺町交番十二月 水つ洟京極錦巡り抜け |
合田憲史 山茶花や女人往生寺寂し 数へ日の錦市場の人幾重 |
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合田智子 |
中嶋昌夫 |
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原 道代 信長の墓にひびあり京時雨 迷子石の道標あり春を待つ |
森野美穂 冬将軍錦小路で足を止む 甲冑の傷厳冬の本能寺 |
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井上澄江 誓願寺祈る母娘や冬薔薇 小春日の蛸ありがたやなで薬師 |
中村光男 押型に刀匠の魄冴ゆるかな 矢田寺の絵馬の劫火や冬ざるる |
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永井玲子 悪役の似合ふ住職南瓜炊 京まではまだ半分や富士の雪 |
佐藤律子 極寒や幟の赤き癌封寺 京極にロンドン焼きや年暮るる |
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佐藤博子 |
以上 |
縁起 人々に「南無妙法蓮華経」を信奉させ、口に唱えさせることが日蓮大聖人の生涯の念願であった。 |
御開山の日隆聖人は応永22年(1415年)伯父にあたる日存・日道両聖人と共に妙本寺(現在の妙顕寺)の綱紀の粛清に務めたが志を遂げられず同寺を去った。 そして油小路高辻と五条坊門の間に本応寺を建立し、日蓮大聖人の念願である人々の口に「南無妙法蓮華経」を唱えさせるべく教化を始めた。 本能寺は1415年から1432年までは「本応寺」と寺名を使い、1433年から現在まで「本能寺」を使用している。 その理由は「本門八品相応能弘之寺」の言葉より本応寺・本能寺という寺名にした。 また現在能という寺をに替えて使用しているが、これは五度も火災に遭遇したので匕(火)を嫌いの字に替えたものである。 上杉本の「洛中洛外図屏風」では「本能寺」と書かれている。
誓願寺 (ホームページより) そのためか誓願寺にゆかりの深い歴史上の人物も大変多く、ことに清少納言、和泉式部、松の丸殿といった女性たちからの深い信仰を集めたため「女人往生の寺」とも称され、 そのほかにも落語の祖と呼ばれる「策伝上人」や謡曲「誓願寺(世阿弥作)」に謡われるなど、落語発祥の寺、芸道上達の寺としても広く信仰を集めております。 誓願寺は今も変らず京都の街の真ん中で、人々の暮らしとともにお灯明を灯し続けております。 京都にお越しの折りには、是非一度ご参拝頂ければ幸いです。 |
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蛸薬師堂永福寺 写真提供:『京都フリー写真素材集』 http://photo53.com/ 京都の繁華街。新京極通に面して蛸薬師堂はあります。豊臣秀吉の時代、都の東の端の城壁代わりに、大きなお寺ばかりが集められた時、蛸薬師堂永福寺も、二条室町から移されました。 |
蛸薬師如来の由来 後深草天皇の御世、建長(1249~1256年)の初めの頃善光と言う僧がこの寺に住しておりました。 ある時、母が病気になり寺に迎えて看病していましたが、一向に病はよくなりませんでした。 母は「子供の頃から好物だった蛸を食すれば病が治るかもしれない。」と善光に告げました。 しかし、善光は僧侶の身で、蛸を買いに行くことを躊躇しておりましたが、病弱な母のことを思うといてもたってもいられず箱をかかえて市場に出かけ、蛸を買って帰りました。これを見た町の人々は僧侶が生魚を買った事に不審を抱き、善光のあとをつけて寺の門前で、箱の中を見せるようにと彼を責めました。 善光は断ることも出来ず、一心に薬師如来様に祈り「この蛸は、私の母の病気がよくなるようにと買ったものです。どうぞ、この難を助け下さい。箱を開けると蛸はたちまち八足を変じて八軸の経巻となり霊光を四方に照らしました。 |
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