フランス通信

 
*悪天候、増水、洪水、、、( LES INTEMPERIES, LES CRUES, L’ INONDATION, ......)

 思い起こせば5月10日頃迄は、もう夏が来たかと思う様な暑い位の晴天続き、それが中旬頃から曇天、雨天の連続、日中の気温も20℃に達することも稀れとなり、寒さすら感じる毎日となりました。大粒の雹が降って、白ワインで名高いシャブリは殆ど全滅、突然の雷がモンソー公園で誕生日会の子供達を直撃、子供8名と大人3名が重軽傷。6月に入るや雨が多くなり、ヨンヌ(l’Yonne),ロアン(le Loing),ソードル(la Sauldre),シェール(le Cher)といったロワール河やセーヌ河に注ぐ支流が溢れ出して洪水となり、市の中心街(le centre-ville)に急流が走り、家々の地面から50㎝から1m位の高さ迄水・・水・・酷い所は車の屋根を残して水没、2階の窓から助けを求める人たちの姿も見えました。

 上から見れば、野や畑は湖と化し、何処が道路で川か、牛や馬などの家畜が右往左往、オルレアン(Orléans)近くの高速道路10号線(A10)は突然の洪水に運河の様になり、300台程の車が走行途中で孤立、被害甚大となりました。特にヌムール(Nemours),モンタルジ (Montargis),モレ・シュル・ロアン(Moret-sur-Loing),ロモランタン(Romorantin)等では市役所が市民に避難命令を下し、消防、警察、軍隊総動員で救出に当たり、安全な高台の体育館等へ収容、各所1000人から2000人が着のみ着のままで寒さに震えていました。

 何所も水は増すばかり、一軒家に1人住まいの老婦人は気の毒に溺死、普段は穏やかな町も停電で暗く、車や家財道具も全てを失った市民は口々に「全てが駄目になってしまった。」と涙ながらに訴えながらも、最後は「でも私達には命がある」(Tout est fichu, perdu, mais on a la vie.)と笑顔を戻す姿には同情と共に感動すら覚えました。

 有名なシャンボール城(Chambord)は水に浮かんで、まるでモン・サン・ミシェル(Mont Saint-Michel)の様に見えます。そうこうするうちに、支流の流れを集め、更にはパリの洪水を防ぐ為にある4つの人造湖も一杯となって、セーヌ河が増水、コルベイユ・エソンヌ(Corbeil-Essonnes)、ヴィルヌーヴ・サン・ジョルジュ(Villeneuv-Saint-Georges)といった聞き慣れた近郊の町の名前が出るようになり、同様に町中に水の流れ、近郊農業のサラダ菜やトマトの畑は冠水。愈々パリへ近づきました。 “1910年のパリ大洪水”の苦い経験から、セーヌ沿いのルーヴルやオルセー美術館は直ちに閉館して地下と1階に保管や展示している全ての美術品を上階又は他所へ移動して避難させました。河岸のバイパス道路、メトロの線路も、セーヌ河の下を抜けるトンネル内のサン・ミシェル・ノートルダム駅などを閉鎖、万全を期しました。

セーヌ河の増水は、船が橋の下を潜れない程になり、観光船“バトー・ムーシュ”や貨物を運搬するペニッシュ(la péniche)も運休、係留した船の住民達の安全の為にも、水上警察や消防などの警備隊(la brigade fluvial)は大忙しとなりました。セーヌ河はその後も増水を続けながら下流へと向かい、シャトゥ(Chatou)やポアシィ(Poissy)の住宅街も水の中、人間の苦労も知らぬ白鳥の夫婦がヒナを従えて悠々と遊泳する姿、鴨が水没した車の屋根に上がって羽ばたく様が映りました。

セーヌ河は今日もなお増水、“洪水注意報”はそのままに下流へ下流へと流れ、今やノルマンディ地方が危なくなってきています。一方、少し水が引いた所では、避難していた人々が、未だ膝まで水に浸かりながらも帰宅を始めましたが、中には空き巣(les cambriolages)にやられて二重に悲しむ姿もあって同情を呼びました。この他ロレーヌ地方モーゼル河流域も浸水、洪水、ドイツのババリア地方やオーストリーでも大きな被害が出たと聞き及びます。罹災者(les sinistrés)、遭難者(les naufragés)の為にも、早々の回復を心より祈るものです。

*1901年パリ大洪水 ( UNE FORTE CRUE PARISIENNE 1910 )

 1910年1月、100年に1度(une fois par siècle)と云われる大雨に、100年に1度のセーヌ河の氾濫が起こり、コンコルド広場も水の海、、、電気、ガスは止まり、石炭、木炭も使えず、地下のカーヴは完全に水没して、ワインの瓶も壊れて流れ、交通機関はストップ、都市機能は完全にマヒ、道路には歩行者用に板を渡して簡単な歩道橋を仮設するなど大騒動となりました。100年を過ぎた現在、そろそろ起こるのではないかとの予想から、正に今年の3月には、警視庁が中心となって防災訓練が実施され、市民に警戒を呼び掛けたばかりでした。偶然でしょうが、お馴染みのミニコミ紙“オヴ二―(Ovni)”も2016年4月1日発行の805号に「世紀のセーヌ増水がやってくる?」と題して特集記事を組んでいました。

*ズアーヴ ( le ZOUAVE ) 

 今回のセーヌ河増水で話題となったパリのアルマ橋の橋脚に立っているマントを羽織った男の石像は、“ズアーヴ”と呼ばれるアルジェリアの歩兵で、クリミヤ戦争でフランス軍が勝利を収めたロシアの“アルマ”で大いなる活躍をしたことを記念するものです。しかしこの石像は増水したセーヌ河の水位を測る目印として知られ、普段は水面から上に出た台にたっていますが、水位が上がると足元から水に隠れ、今回は腰の辺りまで水に浸りました。このズアーヴ像の膝まで水が上がると船の航行が禁止されます。ちなみに1910年のパリ大洪水の時にはこの石像の肩まで水に埋まったそうです。

*バトー・ムーシュ ( le Bâteau Mouche ) 

 云い易いからか“バトー・ムッシュー”等と呼んで親しまれているセーヌ河の遊覧船、船がハエ(la mouche)に似ているから等と云われますが、実は1867年パリ万国博の時に人気を集めた遊覧船が、リヨンのムーシュという場所にある工場で造られたことから名付けられたのだそうです。

*ニセ・アカシア ( LE ROBINIER (faux acacia)  

 今頃はニセ・アカシアのクリーム色の花が若葉に映える頃ですが、 ニセアカシア今年は天気が優れないために、華やかには咲かず終いでした。フランスへは植物学者のジャン・ロバン(Jean ROBIN)が北米から持ち帰って植えたのが最初なので“ロビニエ(Robinier)”と名付けられ、1602年に植えたその木が400年以上も経った今も、それこそ1910年の大洪水など風雪に耐え、柱で支えられてはいますが、花も咲かせ、パリで一番古い木として見ることが出来ます。ノートルダム大聖堂の橋を渡った角の公園、サン・ジュリアン・ル・ポーヴル教会横手、Square René Viviani, Paris 5eです。

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2016年6月6日 Sainte Norbert:日の出5時48分・日の入21時50分        パリ朝夕14℃/日中22℃曇天、ニース12/26℃晴天、ストラスブール12/25℃曇天
       「短夜に友の面影追いし我」(安芸寛) 皆様どうぞお元気で  菅 佳夫

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