季語の本意

 −佐怒賀正美「隠岐抄」五十句に寄せてー

 

               西村我尼吾

 

 

  隠岐は、佐怒賀正美のお気に入りの場所である。隠岐を何

度も訪れて、自らの中にオギュスタン・ベルクの指摘する、

自己の内面との関係として存在する「風土」を形成してきた。

金子兜大のいう定住しながらも魂は漂泊する試みを続けてき

たともいえる。もともと佐怒賀は「天為」にあって異色の作家

である。写生を基本とするが、それだけに留まらず、写生を

超えようとするはげしさが、そのなんともいえない人柄の良

さの中に同居しており、それがまた、佐怒賀の大器たる由縁

であり魅力である。今回の五十句は、隠岐を訪ねたことのな

い人にも隠岐のよさが理解できるように隠岐の魅力を作品で

紹介した後で、全体を総括する七句が最後に挙げられている。

まず読者は、佐怒賀の目で隠岐全体を俯瞰していくことにな

る。

 

 

  (一)壇鏡の滝

             

  滝裏も澄みゐて日矢の貫くところ

  隠岐の滝遡りし天の澄みにけり

  隠岐の滝澄むにはんざき遊び出づ

  滝かけて隠岐の全霊澄みわたる

 

 日本の滝百選・全国名水百選に選ばれている隠岐一の名瀑。

裏見の滝。壇鏡神社の社殿の横から雄滝の後ろに廻る事が

出来る。隠岐の「午つき」の勝負水にも使われる。渓流には国

の天然記念物のオオサンショウウオが生息する。これら冒頭

四句は「澄む」という言葉が表れる全作品のいわば発句に当た

る作品群であると言える。

 

 

  (二)駅鈴・倉印

 

  まなかひの澄むや駅鈴振る音に

  隠岐倉に冷ゆる螺細の馬杓かな

 

 大宝律令により制定された「駅制」は、各地に設けられた

「駅家」と「駅馬」を利用して官用の文書の伝達や、出張などの

実践をした。自らが、官吏であることを証明し、馬を乗り継

いで旅をした。その証明に鈴を鳴らした。今の「駅伝」レース

の由来。

 現在では、全国で鋳鋼製の駅鈴二個のみが隠岐の億岐家に

伝わる。鈴屋と号した本居宣長もそのレプリカを持っていた

という。倉印は、諸国の税を貯蔵する倉の出納事務に使われ

たもの。全国では、駿河、但馬、隠岐のもののみ現存。

 

  (三)牛つき

  牛突きの祭りうた聞くきのこ山

  どんぐりが囲むや牛のすまふ取

  先生と児等にくつつくすまふ牛

  突き牛の手綱取る子や天澄みぬ

  たんと塩撒け牛も土俵も秋暑し

  秋草をめぐりに牛の突き合へる

  負け牛と子らと千草に安らへる

  勝牛にとび乗る子らや木の実降る

  勝ち牛の息づく釣瓶落しかな

  新走りふふみて牛を闘はす

 

 隠岐の「牛つき」は、後鳥羽上皇を慰めるために行なわれた

ことを起源に八百年近い歴史を有し、日本で最も古いもの。

九月に行なわれる「八朔の牛突き」が、最も古く、壇鏡神社の

神事として行われた。その他神社に奉納される大会として

「夏場所大会」「一夜嶽大会」がある。隠岐では、引き綱をつけ

たまま、最後まで戦う。人牛一体の攻防であり、綱とりの技

術や勇気が見せ場。綱とりになるためには、小学校の3,4

年から修業をはじめる。初めの5試合ほどの若い牛同士の戦

いは必ず引き分けにする。倒れるか、逃げると負けになる。

4,5歳の牛の勝ち牛には、持ち主はじめ関係者が次々と馬

乗りすることが慣わしとなつており、牛突きに関わるものの

名誉。闘牛用の牛は去勢されておらず、負けた牛は、宇和島

などに闘牛用として売られる例が多いらしい。

 

  (四)古面

 

  隠岐の野や尾頭のあるいわし雲

  かりがねや炎色を空に刷くこだま

  腹痛患者の隠岐の古面やいわし雲

 

 天平文化の名残りに蓮華会舞が隠岐国分寺の祭事を飾る

「芸能」として伝承されている。二時間にわたる無言の仮面劇

であり、眠り仏、獅子、太平楽、麦焼、龍王、貴徳、仏の舞

いにより構成、天平の人々の生活をしのぶことができる。太

平楽や麦焼の段には掲句のような表情を古面が示すこともあっ

たかも知れない。本堂には平安の頃と推定される古面が展示

されている。

 

  (五)かぶら杉

 

  秋雨の溜まりて落つるかぶら杉

  島の根にしみる秋日や隠岐の国

 

 かぶら杉は鏑矢に似ていることが由来。樹齢六百年と推定。

六本に枝分かれした巨木。隠岐の島の根と呼ぶにふさわしい。

平成十六年の台風十六号で根元に罅が入ったので養生中。

「しみる」という言葉はふさわしい。

 

  (六)風待ち

 

  天高き隠岐の刳り舟すらりとす

風待ちの隠岐や筆柿たわわなり

  舟屋朽ち隠岐のさくらの返り花

  隠岐舟屋覗けば雁のこゑ渡る

  島の門に焼火の神やいわし雲

 

 隠岐の波止港も西郷港も、出雲の鉄や木綿、年貢米など多

くの荷を乗せた北前船が、順風を待ち、荒天の時には帆を休

める風待ち港として栄えた。特に波止は霊峰焼火神社への入

り口で、風待をした商船は必ず参拝したという。神事に使用

する刳り舟が展示されている。西郷には、今でも風待商店街

がある。柿本人麻呂は、石見の国守の息子といわれているが、

筆柿は人麻呂が、明石から持ち帰ったという伝説がある。筆

柿は葡萄粒くらいの小さな柿でたくさんなる。風待ち港には

附け舟屋があり、船員達は一ケ月あまりも豪遊したようであ

る。惣嫁とよばれる酌婦が海の男達の相手をした。

 「灘ならば藻塩やくやと思ふべし何をたく火の煙なるらん」

の後鳥羽院の御製によってたく火を神号とした。「お灯明

お灯明 隠岐の国焼火の権現様にたむけます よい漁に会わ

せ よいアラシ(風)に会わせてくなはれ 千日の上日和」と

唱え、その火を海に投ずる。

 ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は「知られざる日本の面

影」において「(前略)焼火山には伝説がある。自分はそれを

友から聴いたその頂上には権現様の古い社殿がある。十二月

三十一日夜、霊火が三つ海から現れ出て社殿の処へ昇り、社

殿の前の石灯寵の中に入り、燈のやうに燃えて居るといふこ ∬

とである。その光は一度に海から現れるのでは無く、別々に

現れて、一つ一つ峰の頂上へ上つてゆくのである。みんな其

の光が水から昇るのを見に小舟に乗って来るが、心の清浄な

者だけに見えて、よこしまな考えや願を有つて居る者はその

霊火を見ようと待って居ても駄目である(後略)」と記してい

る。

 

 

  (七)八百比丘尼

 

  かりがねや「尼の投げ松」寄り添へる

  かりがねや隠岐の島根へ金の波

  たつぷりと日暮れまで照る秋の隠岐

 

 若狭の国から隠岐にきて、八百歳まで生き続けたといわれ

る八百比丘尼。樹齢三百年、約二百本の黒松が林立する屋那

の松原。一晩でこれを植えたが、夜明け近く、鶏の鳴きまね

をする人がいたので、尼は残った松の苗を投げ捨てて去った

という。それが、那久の「尼の投げ松」になったという伝説。

 対馬海流は、隠岐を通って若狭に達する。隠岐で遭難した

漁師が若狭に漂着助かることがあった。金儲けの波であり命

を救う波でもあった。

 

 

  (八)古墳

 

  茸と骨光り合ふ隠岐の古墳山

  かりがねやがしん俵は煤のまま

 

 隠岐の総社・玉若酢命神社の周辺では、今までにたくさん

の古墳が発見されている。昨年も小学校建設予定地で古墳が

発見された。石室からはたくさんの副葬品が出土。勾玉、馬

具、鉄刀など権力を象徴するもの。一方、がしん俵は、江戸

末期に飢饉に備えるためのもの。

 

 

  (九)天柱

 

  釣瓶落し隠岐の天柱わだなかに

  せきれいやハーンの鏡ケ浦たたく

  艾ほどの秋の海蜷したたれる

  竜宮の栄螺平たし月の句座

 

 「陰陽本紀」の国産みの段において、天祖は、イザナギ・

イザナミの二柱の尊に、豊葦原千五百秋瑞穂之地を治めるこ

とを命じられた。国の中心の天柱として、オノコロジマを神

の矛から垂れた雫で作ったとされる。天柱を左右に巡り出会っ

たところで、国産みを行おうとするが、二神合体の方法が解

らず、飛んできた「鶺鴒」の頭と尾を動かす様をみて学ばれた

という。淡路州、伊予二名州、筑紫州、壱岐州、対馬州、の

次に隠岐州が誕生し、更に佐波州、大日本豊秋津州と続き

大八州が完成した。天柱とは、天が落ちてこないように支え

ている柱の意味もある。

 ラフカディオ・ハーンは「知られざる日本の面影」において、

明治二十五年に旅した隠岐旅行についてしたためている。滞

在した菱浦の美しさを讃え、ハーンはその人り江を「鏡ケ浦」

と命名した。ハーンは水泳や地元料理を楽しんだ。蜷貝には

ヤドカリが入っていることもあるが、水から茄でて、楊枝で

身を取り出して、親子で話ながら食べるのは、隠岐の団欒の

風景である。ハーンも蜷貝を食べたことだろう。竜宮の使者

とは螢烏賊のこと。烏賊も平たいものであり竜宮の栄螺も平

たいのかなと思う。

 

 

  (十)後鳥羽上皇

 

     隠岐・松尾山金光寺

  いざさらば後鳥羽の山の穴まどひ

  かりがねや隠岐の湧水溜める小屋

  天高し隠岐より京を見はるかす

     隠岐金光寺縁起香

  色鳥ほどや縁起書の乎古止点

  露けしや魔縁の条御置文に

  首に巻きたしや隠岐なる天の川

  末枯れや御遺文に「崇るかもしれぬ」

  下火のあと代々悼み継ぎしろしきぶ

 

 佐怒賀が隠岐に心惹かれるのは、後鳥羽上皇の存在が大き

いと思う。上皇は、小野篁が、松尾山金光寺での祈願かない

赦免されたことに習い、松尾山を勅願寺にしてたびたび登っ

て、遥かな海原のむこうの京を思い、祈願したという。「い

ざさらばここを都とさだむべし松尾の山のあらんかぎりは」

という歌には、十九年にも及んだ隠岐での生活に伴う晩年の

諦観がみてとれる。

 上皇は自ら藤原定家などに命じて作成させた「新古今集」の

改訂作業を隠岐で続けた。四百首をさしかえる詔勅を出した

りしている。佐怒賀俳句の象徴性の高さは新古今の象徴性の

高さと通ずるものがある。

 隠岐神社には、後鳥羽院御手印御置文(複製)がある。後鳥

羽上皇が、崩御の十四日前に真っ赤な御手掌を押印した御

置文を、水無瀬離宮を守っていた水無瀬信成・親成親子に申

し送った物。十九年の永きに亘った無念さが滲み出ている。

 

 

  (十一)終章

 

 佐怒賀俳句の象徴性はその暗喩の使い方に特徴を見ること

が出来る。しかし今回の作品はあえてそれを禁じ手として発

表されている。以上、私が説明を加えてきたことは、佐怒賀

と同行して見物したものでもないし、佐怒賀に問いただした

ものでもない。佐怒賀の美意識により作られた俳句が指し示

す内容が隠岐の現実の風土や歴史について、時間を超越して

私の想像力を喚起した結果の産物である。その意味で佐怒賀

は時制を創造し、その中で隠岐の風土の中に生きるひとびと

の関係を総括し、読者に対して不思議な言語体験をさせる作

品として提示した。

 

奥隠岐の浦廻に小滝吹かれをり

 舟に立ち隠岐なる秋の天に立つ

 摩天崖穴に入る蛇かぎりなし

 隠岐牛や断崖の際まで秋野なる

 怨霊も今日は青澄む隠岐の海

 巌の息海の息隠岐澄みわたる

 全天の見えたる隠岐の秋ごころ

 

 

 これらの作品は、以上の言語体験を重ねた読者にとって、

隠岐を詠っていることを認識させながらも隠岐を離れて独立

した詩的作品として感動を与えてくれる。そこには、後鳥羽

院の魂が佐怒賀にあり、滝が、牛突きが、風待ちが、八百比

丘尼が、天柱が、たく火の神が、すべて総体となって佐怒賀

の中にある。その意味で表現は現実を詠いながらも、表現し

ている者自体は憑依された状態になっているともいえよう。

それにより、特殊性を詠いながらも、普遍性を獲得するとい

う奇跡を出現させている。

 ここにいたるまで何度隠岐を訪れ、隠岐に泣き、隠岐に惚

れぬいたことであろうか。暗喩の天才、佐怒賀正美がこの奇

跡を起こすまでの年月が、凝縮して感じられる。無念の果に

置文を残した後鳥羽院のこころを伴にしながらもこの終章の

佐怒賀の作品は、全て澄み切っている。季語の本意とはかく

ありたいものである。