天為秀句選
蒐玉集 ― 朗人・推薦 (平成20年6月号)
「天心集」より
玉手箱あけて一村朧なり 佐伯 啓子
早や丈を競ひてゐたり植木市 丸谷 三砂
忘らるるため遠くまで潮干狩 仙田 洋子
啓蟄の星座にもある鳥けもの 石川 克子
佐保姫の指に触れたる銀秤 対馬 康子
殉教の島に閏の宵節句 紅林 照代
貼りあはす江戸千代紙や木の芽雨 坂本 宮尾
遮断機のむかうはダナン春貨物 西村我尼吾
ひとりづつ消え涅槃図に釈迦一人 福永 法弘
朧夜の冬虫夏草沈む酒 日原 傳
子のことばあふれて春の川となり 明隅 礼子
声出してゐるかも知れず春の魚 津久井紀代
家ありて人下りて来る春の山 岸本 尚毅
料峭や籠りの僧の籠りごゑ 塩原佐和子
貝雛琉球塗の盆に載せ 古舘みつ子
縦糸を星より紡ぐ炉辺語り 天野 小石
ひとしきり笹に遊びて笹鳴けり 室 明
雲流るまだうつとりと蝌蚪の紐 瀬戸口靖代
獣には見える涅槃の夜の闇 佐伯憲一郎
喧嘩凧高みにあれば争はず 小山 志乃
「天為集」より
選評 − 有馬 朗人 −
春の水谷川俊太郎より出でぬ 手銭 誠
春の水が谷川から流れ出して来たと喜びの声を発したのである。そこで谷川と言いながら谷川俊太郎とつぶやいてしまったところが面白い。川と姓の谷川が掛詞になっている。掛詞という技法は多分日本語特有のものであろう。勿論 Pun(ごろ合せ)は英語などにも多いが、一語を違う意味に用いて前後を結びつけることは殆どない。
この句の面白さはこの語法にもあるが、もっと本質的には俊太郎にある。俊太郎は様々な工夫をする優れた詩人で言葉遊びも得意であり、抒情的でありしかも温かい詩を書く。現代詩人の中で最も春と、生きる喜びを感じさせる詩人である。ここにこの句の面白さがある。試みに父親の徹三とするとこの句の面白さは消滅する。
正面に巻き戻したる木菟の首 樋口由美子
木菟(ずく)はみみずくの略である。そして木菟はその言葉の通り頭の両側に耳のような長い羽毛を持っている。梟の一種であるが、いわゆる耳のあるものをみみずく、無いものを梟と呼んでいる。どちらも夜行性でありかわいい。首を時々左右に回す姿が特にかわいい。横を向いていた木菟がゆっくりと正面へ顔を回した。その仕草を巻き戻したと表現したところがこの句の面白さである。
木菟が暗い所にひそんでいて、じっと木に止まっているところは、何となく玩具のように思える。首を動かすのも機械仕掛けのようなところがあるのを、正面に巻き戻したと表現したのである。こう言ったことによって木菟のかわいらしい姿が目に浮かんでくるのである。表現の面白さである。
蟻穴を出でてもの引く力かな 原 玉江
春になって蟻も穴から出て来た。そして早速食べ物を探しに歩き廻り、見付けた物を曳いて巣へ戻ろうとするのである。この様子はごくごくあたり前で誰でも春になると見ることである。それを玉江さんは、蟻が「もの引く力」を持っていると感心しながら見たのである。他の虫が穴を出て何か物を動かしたところを見ても、このような気持ちにはならないであろう。やはり蟻が常に歩き回り獲物を一所懸命運ぶ姿を見ているので、穴を出てもう物を引っ張っていると、その力に感動したのである。自然界にはいろいろな動物がいるし、さまざまな植物がある。何故かと考えるとますます不思議である。
下戸一人牡蛎の焼き手となりてをり 福井 雅泉
友人たちと牡蠣を焼きながら酒を飲んでいるのである。誰かが焼くと、そばから誰かがそれを食べ、そして酒を飲む。楽しい団欒である。その様子を見ていると、初めは公平に一人一人牡蠣を焼いていたが、上戸はどうしても酒を飲むのに忙しくて、牡蠣を焼くのがおろそかになる。そして何時の間にか下戸が専ら焼き手になっているのであった。焼きながら話に耳を傾け、自分も口を出しているのであろう。しかし上戸は飲むにつれ饒舌になる人が多いから、下戸は自然にどちらかと言えば静かに黙って焼くようになっていくのかもしれない。そのような様子が描かれていて面白い。自画像か。
風光るヴェッキオ橋の宝石店 根岸三恵子
イタリアのフィレンツェは美しい街である。中心にアルノ川が流れている。その河畔にボッティチェリの「春」やレオナルド・ダヴィンチの「受胎告知」などの名画を収めるウフィツィ美術館があり、ポンテ・ヴェッキオがかかっている。そのヴェッキオ橋には屋台店が沢山並んでいる。イタリアは冬でも青空があり太陽が輝く。それ以上に春には光が溢れ明るい。特に風が光る感じがする。その光るように明るい風の中で、ヴェッキオ橋の宝石店の宝石は輝いていたであろう。フィレンツェの春を詠むのに何を主題にするか困ったであろう。その時ヴェッキオ橋という街の中心を選んだことは成功であった。
卑弥呼行く山茱萸の花を挿頭して 金子 和美
山茱萸の花が咲くと、ああ春だと嬉しくなる。細かい黄金色の花が球状になって咲く。もともとは朝鮮半島原産で、日本には江戸時代薬用として渡来したといわれる。しかし隣国の原産のこと、九州あたりではもっと早く古代にでも渡来していたような気がする。この句は卑弥呼が山茱萸の花を頭に挿して歩いているという、楽しい想像の句である。山茱萸という早春の花を挿して、春が来たことを喜んでいる乙女の姿が浮かんでくる。そしてもともと韓の国の花であったと考えると、この卑弥呼の国も九州にあったような気になってくる。未だに耶馬台国は九州にあったのか、近畿にあったか不明ではあるが。
仰けからどか雪となる三河かな 神谷 久枝
いかにも三河らしい句である。三河はどことなく冬が厳しい感じがする。太平洋側は暖かいが山の方に入ると寒さが少々厳しいからであろう。その三河のこと、雪が降り始めたと思っていると、どか雪となったのであった。この句には「是がまあつひの栖か雪五尺」という一茶の句に似かよったところがある。のっけからどか雪になった。これが三河なのだと嘆くようなつぶやきであるが、実は三河に心から親しみ愛着を感じている句である。同じように一時に多量に積るどか雪でも、「仰けから」であるところに、三河らしさが出ていて佳い。
うすらひにささやいてゐる小波かな 荒木那智子
やっと春になった。池の氷も殆どとけて今は薄氷だけが残っている。そこへ春風が吹いて来るとさざなみが起って薄氷を揺らすのである。その小波が薄氷に近づく様子を「ささやいてゐる」と見たところが佳い。まだ浅いが春らしい優しい感じを出している。春になったので人間達だけでなく、動植物は勿論のこと、小波や薄氷までが喜んでいる感じがよく表されている。同じようなことでも、しかも客観写生に徹しても、単に氷を小波が動かしているというように表現するのではなく、ささやいていると擬人的に述べることによって、抒情が滲み出して来るのである。
あたたかやシャツの背にある東巴文字 小林のぶ子
中国には沢山の少数民族が住んでいる。その中でも雲南省には、二十以上の種族の人々がいる。その中の一つがナシ族であり麗江に住んでいる。麗江は近年世界遺産に加えられた。この民族は言葉が独自であるだけでなく、丸味を帯びた絵のような文字、東巴文字を持っている。その字がシャツの背に模様として書いてあるのである。春になり厚い着物からやや薄手の春衣に変わる。その頃この観光地化した麗江でナシ族の若者が東巴文字を描いたシャツを着て、街を歩いている姿を見て、あたたかになったとその地を訪ねていた作者も思ったのである。旅人としての喜びが出ていて佳い。
手品師の大仕懸けなり春霞 山崎日出子
春になり街頭で手品師がいろいろな手品を観客に見せている。なかなか上手な手品師だと皆が見ていると、何時の間にか山の方には春霞が掛かっていたのであった。それはいかにも手品師が術で霞を掛けたように見えたのである。そうならばこれは大仕懸けな手品である。童話のような発想で春霞を大仕懸な手品と見たところが、この句の面白さである。手品師と言えば鳩が出て来たとか、帽子がどうしたという句が多くなるのは当然で、それが又佳い句にもなる。しかし春霞が手品の結果と見たところが佳い。しかも春霞というのどかな感じのものであることが佳いと思う。