天為二百号記念特集

    「検証・戦後俳句」
      もう一つの俳人の系譜



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      清水径子

      
 ー 寂の幻想 ー


                  仙田 洋子


 俳人としての清水径子の特徴は、その句集を世に問うたとき既に年老いていたことだ。第一句集『鶸(ひわ)』の刊行は昭和四十八年であり、明治四十四年生まれの径子は六十二歳だった。今でこそ八十代、九十代で元気な老人は珍しくなく、六十代は老年というよりも壮年と考えられるようになってきたが、当時は五十歳で十分に初老とされていた時代である。その点で『鶸』は中村苑子の『水妖詞館』(昭和五十年、苑子六十二歳の折の刊行)と同じであり、苑子に<羽毛一と吹き老春はいま初まるか><死後の春先づ長箸がゆき交ひて><黄泉に来てまだ髪梳くは寂しけれ>といった他界を意識した句があるように、径子にも次のような句がある。

  もう来ない一握の婆蝉の坂      『鶸』
  墓洗ふいつぽん帰る道のこし         
  短き世ひたすらに白さるすべり
  落日に諸手つく老きりぎりす
  秋の蝉やがて地上に石のこる
  手足うごく寂しさ春の蚊を打てば
  極楽はさびしからずや蓴菜生ふ
  安らかな樹よ完全に木の葉落ち

 これらは、ひとたび成熟した後は衰え朽ちていくしかない生き物の定めを知った老人の句である。刻々と湧き出る現在の一瞬がたちまち過去に変わり、いかなる営みも水面の漣のように消えてなくなり、自分もいずれ動かない肉塊となることを悟った人間の句である。 
 師であった秋元不死男は『鶸』の序文で「嘆きの詩性」「涙などと直結していない・・・(中略)・・・知の果てにある嘆き」と径子の作風を評したが、これらの句を読んでいると、「嘆き」というよりは「寂」という文字が私の脳裏に浮かんで来るのである。それもからりと乾いた「寂」、諦めとともに受け入れざるを得ない、老い・死という万物に共通の定めから発する「寂」である。
 秋元不死男亡き後に師事した永田耕衣には<夢の世に葱を作りて寂しさよ>(『驢鳴集』)<茄子や皆事の終るは寂しけれ>(『冷位』)<寂しくて道のつながる年のくれ>(『殺佛』)など寂しさを詠んだ句が数多く、また、径子の後年の句集『雨の樹』のあとがきによれば、耕衣は寂しさを「人間が生きる限り、最も原始的であり不変な情感である」「寂しさを好む者にとって、寂しさは心のウルオイとなり、賑やかさとなる」と言い、「寂し俳句」を作るにあたっては「さびしというセンチメントに陥らぬ俳句をものせねばならぬ」と教えたそうだ。
 だが、そういった影響云々よりも、『夢殿』のあとがきの「老や死という負の部分といえるものに目をそらしている自分の弱さを、頭の中の声が折々噴出しては私をこづくのだった」や、『雨の樹』のあとがきの「ふと頭の中を「晩年」の二字が通りすぎた。晩年とは老ゆること、まことに単純明快である。辞典をみると、「人の一生のうちで死に近い時期」とある。考えると何だか淋しくなってくる。五十代の頃であったか、ふと手にとってよんだかの世阿弥の『風姿花伝』の「第一、年来稽古条々」は、しなやかな世代論を盡していて、当時の私にはおそろしかった。二十代、三十代、四十代という花の時代が過ぎる度に、止めを刺される思いもあった」という率直な述懐の方が、径子の「寂」の思いを生々しく伝えてくれる。ちなみに、「第一、年来稽古条々」では、三十四、五歳を「盛りの極め」とし、四十四、五歳を「能は下らねども、力なく、やうやう年(闌け)ゆけば、身の花も、外目の花も、失する」年齢としている。五十歳を超えては、「「麒麟も老いては駑馬に劣る」と申す事あり」と情け容赦がない。
 右に引いた句をもう一度見ていただきたい。春の蚊を打った罪悪感があったとしても、若く元気で手足が動くのを当然だと思っている人間からは、<うごく寂しさ>という表現は出て来ない。完全に葉を落としてしまった樹はもうこれ以上落とすものがないから、<安らか>なのである。死んでしまった人間がもう再び死を恐れることも死ぬこともなく、いつまでも安楽に眠っていられるように。だが、蓴菜が生え諸々の命が息づく世に生まれ落ちた人間にとっては、極楽の安らかさは寂しく恐ろしい。『歎異抄』にも<久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだむまれざる安養の浄土はこひしからずさふらふ>とある。
 径子は平成十七年十月に九十四歳で亡くなったが、彼女のように長寿に恵まれた人間は、次第に「流転せる苦悩の旧里」つまり人間界から引き離され、「こひしから」ざるかの世に向かい合う寂しさを引き受けなければならない。「寂」は老いと共に深まっていく。
 第二句集以降の各句集から「寂」に根ざした句を引いてみよう。径子には『鶸』『哀湖』(昭和五十六年刊行、径子七十歳)、『夢殿』(平成六年刊行、径子八十三歳)、第十七回詩歌文学館賞を受賞した『雨の樹』(平成十三年刊行、径子九十歳)の四冊の句集があり、この四句集と『雨の樹』以後の作をまとめた『清水径子全句集』(平成十七年二月刊行、径子九十四歳)がある。最晩年に近づくほど、頭の芯が痺れそうになるほどの寂しさが伝わって来る。

  つま先を桜吹雪に弔はれ         『哀湖』
  日盛りの秋風に凭(よ)るみなまぼろし
  寒の水飲みて必死に衰へむ
  わが墓が立つたり水のうまき春
  死ねば忘らることのよろしさ夏の月
  さびしさに押へられをる干潟かな
  ひこばゆる切株にもう来ない婆
  桐は実を入れてときどき淋しきかな   『夢殿』
  二百十日淋しきものは生乾き
  淋しい日蒲の穂絮にくるみてよ
  生前の葦かしばらく話さうよ
  風船を数へてながのいとま乞ひ
  倒れたる板間の葱に似て困る
  雲に鳥少しかなしき方(かた)にわれ
  寒卵こつんと他界晴れわたり
  日の扇ざはざはと死におくれをる
  慟哭のすべてを蛍草といふ
  われは草死ねばこの家のほうき草
  朝顔はさみしき色をとり出しぬ       『雨の樹』
  冬一日腹這ふと死が近く居る
  鳥帰る生きるといふは霞むなり
  ほのぼのと哀しや春を正座して
  唇濡らす水は涼しくはた哀しく
  ひつそりと死はくる髪を洗ひあげ      『雨の樹』以後
  もう少し生きてゐたくて寒がれり
  藪椿最後の一つ落ちました
  孤独とはすさまじきかな栗の虫
  命燃やしきつたる野菊見てやりぬ
  有限といふ言の葉の寒い日よ
  梟も淋しいときは目をつぶる
  消えてみたく二百十日の空見ている
  さびしいからこほろぎはまたはじめから
  老いながらああをみなへしおとこへし
  知つてしまふ事の淋しさ花野とは

  <雲に鳥少しかなしき方にわれ>は、芭蕉の<この秋は何で年寄る雲に鳥>を思い起こさせる絶唱であり、清水径子と言えばまずこの句を思い出す人も少なくないであろう。<知つてしまふ事の淋しさ花野とは>は『清水径子全句集』の最後の句だ。何を知ってしまったのか、句には表われていない。だが、それは恐らく、生まれ落ち成長した後は衰えて死ぬ命のサイクルの限りない繰返しの寂しさ(永劫の寂しさと言い換えてもいいが)であろう。長生きをするということは他の命よりも死に遅れるということだから、長命であった径子は、藪椿の最後の一輪や野菊が命を燃やしきったのを見ただけではなく、無数の命が跡形もなく消え失せるのを見届けてきたはずだ。<有限といふ言の葉>の寒さを知り尽くしてきたはずだ。その果てに、もう少し生きていたいと願いながらも、自分もまた二百十日の空へふっと消えてしまいたいという思いに襲われたのではないか。
 こう書くと深刻で救いのないように聞こえるが、一方で径子は「寂」を生きるエネルギーに変えて作句していたようだ。五十歳年下の三枝桂子氏は、「私の歳まで生きたらあなたはまだこれから五十年も俳句ができるじゃないの。いいわねえ。これからまだ五十年も俳句ができるなんて。羨ましいわ。」という径子の発言を伝え、「俳句が好きでたまらないといった御様子だった。その時の笑顔も私には忘れられない。」と書いている(「らん32号 清水径子追悼特集」より)。
 また、<風船を数へてながのいとま乞ひ>や<倒れたる板間の葱に似て困る>のように、「寂」に根ざしながらもおかしみのある句が含まれている点にも注目したい。風船の句の<ながのいとま乞ひ>には当然死が意識されていようが、表現としておどけるだけの余裕がある。葱の句は転倒した自分を板の間にばったり倒れている葱に喩え、困ったものよと微苦笑しているものだが、諦念に裏打ちされたユーモアがある。また、<生前の葦かしばらく話さうよ>は眼前にそよぐ葦を生前の葦、いずれは枯れ果てる葦だと見て取って、滅びゆくもの同士せめて生きている間は<話さうよ>と親愛の情を込めて呼びかけている。
 更に、<寒卵こつんと他界晴れわたり>や<われは草死ねばこの家のほうき草>のようにこの世とかの世、自分も含めたモノとモノとの境界を取り払って同化させようとするのは径子の句にしばしば見られる試みである。自身の同化願望が募って変身に至る句も時折見受けられる。
 余談になるが、変身願望の句といえば、同じ永田耕衣門の中尾壽美子もまた<旅人はぱつと椿になりにけり><長生やある時間以後揚羽蝶><傘寿とはそよそよと葉が付いてゐる>(『老虎灘』)など数多く詠んでいる。壽美子は老いや死についても<白髪に虻・蜂・谺あつまれよ><白髪の種花種に混ぜてゆく><笑ひ死になどもあるべし霜柱>(『老虎灘』)などの作品を残しているが、径子の句と比べると大らかで明るい。壽美子最晩年の<裏口は涼し寂しと深空あり>(遺句集『新座』)でようやく「寂」が現われ始めたところだったろうか。これは両者の資質や家庭環境の違いかも知れないし、九十四歳まで生きた径子に比べ壽美子が七十五歳で亡くなったからかも知れない。径子は家庭運に恵まれておらず、六歳のときに父が四十歳の若さで病没、七歳のときに母が三十六歳で病没、彼女自身は離婚を経験している。こういった環境が作品に影を落としていないはずはない。
 この世とかの世や自分と他のモノとの境界を取り払おうとした句を次に実際に引いてみよう。

  身が茂る青蘆原の蘆となり       『鶸』
  日没におどろきて寒卵産む       『哀湖』
  くだかるるまへに空蝉鳴いてみよ
  うしろ手をつきてかなかなかなと鳴く
  擂鉢にいかな睡蓮現はれむ      『夢殿』
  日が射すとわれも変型あやめとよ
  われは風速九メートルの羽抜鶏
  追想をすれば真葛ヶ原くすくす
  眠たうてときどき蝶に押さるるよ
  睡魔ゐて蛍袋を出られぬ日
  露踏んで茄子の花にもなりまする
  乱菊と眠り薬を分ちあふ
  おいしい水にわれはなりたや雲の峰   『雨の樹』
  糞ころがし笑つて居れぬ手を貸しぬ
  裏山十九時かなかなも淋しいか
  青簾たちまち吾れの無くなれり
  転生の直後水色野菊かな
  夕暮れてひとり薺の花でゐる
  手を入れて野川の春をそそのかす
  誰であつたか忘れてしもて冬青空     『雨の樹』以後
  仰向きに寝てクローバになりました
  魔女になりたくて月光浴びて居る

  <身が茂る青蘆原の蘆となり><日が射すとわれも変型あやめとよ><われは風速九メートルの羽抜鶏><露踏んで茄子の花にもなりまする><おいしい水にわれはなりたや雲の峰><転生の直後水色野菊かな><夕暮れてひとり薺の花でゐる><仰向きに寝てクローバになりました><魔女になりたくて月光浴びて居る>は変身句・変身願望句である。<変型あやめ>や<羽抜鶏>に喩えた点は、<倒れたる板間の葱に似て困る>同様、自分を笑い飛ばそうとする思いの表れであろう。
 それにしても、蘆、変型あやめ、羽抜鶏、茄子の花、おいしい水、水色野菊、薺の花、クローバ、そして魔女、と対象は実に多種多様である。俳句の上で変身を遂げたり変身を希求したりしながら、自らの古びた肉体を脱ぎ捨てて心の自由を得ようとしているかのようだ。
 戦死した夫の骨壺を十七年忌が過ぎて開けてみたら、骨も何もなく薄い黄色い水が底の方に少し溜まっていただけだったと中村苑子が語っているのを読んだことがある(『証言・昭和の俳句・下』 角川書店)。読経していた住職に「人間は土の中で水に返って、水もやがて土に染みて無になる。人生は輪廻です」と言われ、第一句集名を『水妖詞館』にしたそうだが、<おいしい水にわれはなりたや>と詠んだ径子もまたそれを知っていただろうか。人間の身体は大部分が水からできているのだから<水にわれはなりたや>とは身体をHОのレベルにまで分解したいということだ。この句は水と雲の峰という夏らしい明るく豪放な取り合わせでありながら、<なりたや>という変身願望を織り交ぜた途端に死の匂いが漂い始める。<誰であつたか忘れてしもて冬青空>では、長い年月を生きてきて自他の区別などどうでもよくなった放心のありさまを<忘れてしもて>と関西風にやや滑稽めかして詠んでおり、<青簾たちまち吾れの無くなれり>に至っては完全に無との小気味よい同化である。
  <くだかるるまへに空蝉鳴いてみよ><うしろ手をつきてかなかなかなと鳴く><追想をすれば真葛ヶ原くすくす><眠たうてときどき蝶に押さるるよ><睡魔ゐて蛍袋を出られぬ日><乱菊と眠り薬を分ちあふ><糞ころがし笑つて居れぬ手を貸しぬ><裏山十九時かなかなも淋しいか>は変身ではないが、自然界の他のモノに呼びかけ、自分と対等の命として扱い、同化しようという作品である。<手を入れて野川の春をそそのかす>からは耕衣の<手を容れて冷たくしたり春の空>(『冷位』)を思い出すが、春の生命力そのものと一体になろうとするかのようだ。その姿勢は近代の合理主義に則り、事物を科学的に観察・分析する態度 俳句でいえば客観写生的態度 からは程遠く、近代以前のアニミズム的な物の見方に近い。
 もちろん、理性をもって考えればいろいろと反論できるだろう。蝉は鳴くが空蝉は鳴かない。砕かれようと砕かれまいと鳴かないものは鳴かない。かなかなの真似をして鳴くなんて、このお婆さんは呆けたに違いない。真葛ヶ原がくすくす笑うはずはないのだから風にそよいでいると詠むべきで、そのそよぎ方をどう巧みに詠むかが俳人の腕前である。人間が蝶に押されると感じるほど軽いはずはないし、睡魔がいようがいまいが、そもそも人間が蛍袋に入れるはずがない。どちらの句も事物の大小を甚だしく無視している。乱菊とどう眠り薬を分かち合うのか、ちっぽけな糞ころがしにどうやって手を貸すのか、妄想を言い出すのもいいかげんにして欲しい。かなかなに呼びかけるのは勝手だが、蝉に人間のような感情が備わっているはずはない。
 私は今わざとDevil's Advocate(悪魔の代弁者)を務め、心の内と反対のことばかり書き並べてみた。まともな俳人であれば、私のつけた難癖に同意する人はいないであろう。 <うしろ手をつきてかなかなかなと鳴く>の、老女がかなかなと化したかのような狂気と紙一重の不気味さ、その裏から滲み出る寂しさを見落とすようでは、俳句をやるのに必要な感性が欠落していると言っていい。逆に、私のつけた難癖から、径子の句を面白くしている要素が浮かび上がってくるだろう。
 それを一言で言えば、充分なリアリティを持った幻想である。<擂鉢にいかな睡蓮現はれむ>と詠んだ瞬間に、空っぽの擂鉢に清らかな睡蓮の花が咲き出でる幻想を読者に抱かせるのに充分な言葉の力である。それは、「たとえば私が、花!と言う。すると・・・(中略)・・・[声を聴く各自によって]認知されるしかじかの花々とは別の何ものかとして、[現実の]あらゆる花束の中には存在しない花、気持のよい、観念そのものである花が、音楽的に立ち上がる」(『マラルメ 詩と散文』(ステファヌ・マラルメ著 松室三郎訳 筑摩叢書)現象に極めて近い。
 径子は写生の概念だけに囚われてはいなかった。「氷海」昭和三十年八月号誌上で、詩も含めた芸術の表現方法について「眼前の描写記述ではなく、真実をより本質的に表現するため、現実的には嘘の如き表現方法がいろいろ用ひられます」とし、例えば「ゆがめられた林檎や、三角形に描かれた顔の中から、実在の顔や林檎の本質的なもの、生命的なものを感じ感動させられることがしばしばあります」として、「文芸上の虚構」を認めている(「らん32号 清水径子追悼特集」より)。
  <日没におどろきて寒卵産む>は、日没に驚いたからといって卵を産むはずはなかろうに、そんな椿事が俳句形式にことんと収まった不思議な句だ。日没に驚くことも寒卵を産むことも現実の出来事だが、それを軽い間を置いて組み合せることによって不思議が生じるのである。ちょうど、シュールレアリスムの画家が細部を緻密に描きながら、組合せを現実から少しずらすことによって超現実を呼び出すように。
 それにしても、この句の主語が略してあるのは偶然だろうか。卵を産むのは鶏だからわざわざ書かなかったのだろうか。深読みかも知れないと怖れつつも、私は、主語=人間(作者)と解釈されてもいいように径子がわざと曖昧に書いたのではないか、自らは子を成すことのなかった径子が寒卵を産む鶏に自らを喩えたのではないかという思いを消し去ることができないでいる。そのような解釈を取れば、この句は人間と鶏が一体と化したような、ますます不思議な作品となる。
 更に不思議な句を挙げてみよう。

  乳房もつ白鷺か森に隠れたり      『鶸』
  哄ふ声ときどき聞こえ蛇の衣       『哀湖』
  戸を叩く水鶏(くひな)とも夢菩薩とも   『雨の樹』以後

 当然のことながら、鳥類の白鷺に乳房はない。だが、<乳房もつ白鷺>が更に美しく、生きる哀しみさえほのめかすと感じるのは私だけだろうか。<日没に驚きて寒卵産む>同様、<哄ふ声>の主語もまた省略されている。人間が哄っているととらえるのが常識的かも知れないが、衣を脱いだ蛇が哄っていると解釈すれば、異常なほどの妖しい世界が立ち現われる。その鳴き声から戸を叩くと言われる水鶏だが、そこから更に夢菩薩へと連想を飛躍させることで、私達はこの世とかの世の茫々とした境界へ連れて行かれたかのような思いにさせられるのだ。径子流の「ゆがめられた林檎」や「三角形に描かれた顔」は、寂しさを通奏低音として響かせながら、その上に様々な幻想の花を咲かせている。
 日本はこれから超高齢化社会になると予想されている。もともと高齢者の多い俳壇も例外ではない。退職した団塊の世代が入会して、高齢化した結社が再活性化するのではないかと期待する向きもあるようだが、どれほど裾野が広がろうとも、頂上が低くては話にならない。
 寂しさを味わい続けた人生であったかも知れないが、その寂しさを逆手に取って、清水径子という高峰は生まれた。人間としての限界に近い長寿をその負の面とともに引き受け、自由自在に老いを詠んだ。心中に湧いてやまない寂しさを感じ取る感受性があり、それを受け止めながら笑いに転じる強靭なしなやかさがあった。「寂」の幻想を詠み続けた径子は、戦後俳壇の優れた俳人であったと同時に、この先、超高齢化俳壇の先駆者として再評価されるようになるのではないか。
 同じく長寿を全うした俳人には、最近では前述の中村苑子(二〇〇一年八十八歳を目前に没)や鈴木真砂女(二〇〇三年九十六歳で没)それに桂信子(二〇〇四年九十歳で没)がいる。だが、苑子は<麗かや野に死に真似の遊びして><桃いろの拳(こぶし)をほどく死後の春>(以上『吟遊』)と老いてなお妖艶さを演出し、波乱万丈の人生を送ってきた真砂女は<鴨引くや人生うしろふりむくな>(『居待月』)<戒名は真砂女でよろし紫木蓮>(『紫木蓮』)と老いて潔く、信子もまた<人の言ふ老とは何よ大金魚>(『草影』)<往生に大をつけたき老いの春>(二〇〇五年版「俳句研究年鑑」)と意気盛んである。老いは若さや美しさといった虚飾が全て拭い落とされ、衰えて死ぬ運命と対峙する時期だが、それを「老いのめでたさ」などとごまかさず、寂しさとここまで深く向かい合った句業は、径子のそれ以外には見られない。
 左に記すのは、「らん32号 清水径子追悼特集」に載った遺作七句である。どこにも発表されることのなく手帳に残されていたそうだが、最期まで句のレベルは落ちていない。落ちるどころか、最後の句は代表作としてもいいのではないか。

  柚子をもぎ若き一日なつかしむ
  頓服効いてひら仮名の文たのしめり
  身を寄せるもののなければ落葉踏む
  草笛の涙涙(るいるい)たるを遠くにす
  東西も南北もいまなほ雪晴
  やがて消えゆくいのち秋風めくら縞
  生きている限りは老婆秋ふかし

 二度と再び若返ることはない。生きている限りは老婆であり、やがて命は衰えて消えてゆく。これほど重い人間の定めを真正面から受け止めた寂しさの句は、俳句史上に於いても稀であろう。
 これほどの作を残しながら、清水径子は俳壇に於いて充分に評価されているとは言い難い。例えば、径子の死の翌月、平成十七年十一月に刊行された(編集は径子生前)『現代俳句大辞典』(株式会社三省堂)での記述は僅か二十行であり、代表句の鑑賞もない。行数が全てではないとしても、前述の中村苑子(九十三行)、鈴木真砂女(一〇一行)、桂信子(一一一行)と比べていかに地味な扱いであることか。
 だが、作家の評価は死後に始まる。「藝術が永遠であることなど、私は信じない。藝術・文学の歴史には、永久に知られざる傑作が、消え去った生の証しが、いくらもあるに違いない」(『大伴家持』)という山本健吉の言を持ち出すまでもなく、それ自体で永遠の価値を宿す詩歌などはない。作家が風化を生きのびられるかどうかは後世の人々の評価によって決まるのであり、径子の句が残るかどうかは彼女の死後も生き続ける私達の肩にかかっている。