金村眞吾句集 『柿』

       2000年5月 角川書店刊


《句集評》

     静かな清涼感   
       金村眞吾句集『柿』  
   


                 明隅 礼子 



 眞吾さんの第一句集『柿』は、読後にしみじみとした、静かな清涼感が残る句集である。眞吾さんはおそらく、子ども時代に心に刻まれた美しい思い出をいつまでも胸に抱き続けておられるのであろうとまず感じた。また、句集を拝読して初めて知り得た眞吾像が確実に在り、心の内を表現する俳句の力に改めて魅力を感じた次第である。
 私が初めて眞吾さんにお目にかかったのは、確か、二年前の冬であったと思う。その頃の私は、句会と言えば本郷で毎月行われていた学生句会しか知らず、知った顔も殆どない銀杏会や例会に緊張しつつ初めて出席したのであるが、皆に温かく迎えて頂いた。また、勉強不足の私に、皆いろいろと親切に教えて下さったが、眞吾さんも、その中のお一人であった。
 そのような、句歴においても、人生においても大先輩である眞吾さんの句集評という大役を私が担うのは甚だ僣越ではあるが、せっかく頂いた貴重な機会であるので、筆を進めてみることとしたい。

 句集『柿』には、昭和六十一年から平成十年までの作品三百五十八句が収められている。眞吾さんは、中学校時代に作句を開始され、以降、「富士」、「初蝶」、「天為」の三結社に順に所属されてきたが、本句集は、「初蝶」時代の四年間及び「天為」入会後の八年間の作品から構成されている。
 句集のあとがきに、「俳句の面白さ、楽しさはわが生き甲斐であります。」、「私自身の性格すら俳句は変えてくれました。」と記されているが、十五年前までは無季俳句にも親しまれ、その後も数多くの句友を得られて、俳句の世界を縦横無尽に泳いで来られた眞吾さんならではの思いであろう。
 句会での眞吾さんはいつも静かで、いつであったか、

  雪礫ぶつけて泣かせ恋知りぬ

という句を出され、眞吾さんの名乗りに周囲からどよめきが起こったが、そのような時にも眞吾さんは何事もなかったような顔をしておられた。『柿』の集中には、恋の句が他にも幾つかある。

  ひと恋ふて朧の橋を渡りけり
  ぼうたんや身をやく恋をせしは夢

 これらの句からは、心の奥に秘められた真直ぐな情熱、真摯な心を感じた。<朧>の句には、恋のもどかしさ、切なさ、そして神秘さがよく表れている。また、

  泣き上戸肴にされて祭かな
  五十年飼ふ泣き虫よ桜榾
  煮凝や宴さなかの泣き上戸

には、私の知らない眞吾さんを発見する。私も実は相当な泣き虫なのだが、父親の涙は殆ど見たことがないせいか、何だか不思議な感じがした。きっと、これまで人生の様々な局面で貴重な涙を流されてこられたのだろうと思う。この三句には、何気なさの中に、人生の豊かさとも言うべき幸福感、温かさが漂っている。恐らく、人のために流した涙も少なくないのではないかと想像する。
 また、句集全体に広がっているのは、心豊かな、そしてどこまでも心地良い穏やかさである。

  端居して家鴨の喧嘩見てゐたり
  ねそべつて夕餉待つ間の河鹿笛
  夜を待つ机の花火袋かな
  初蝶を見しそれだけの誕生日
  懐の猫に鳴かれて遅日かな
  風のみち猫にとられて夏座敷

 これらの句には、ゆったりとした時間の流れがあり、それでいて、その時間の背後にある凝縮された一瞬を感じ取ることが出来る。ぼんやりと眺めているようでいながら、確かな視点が常に存在している。<初蝶>の句を読むと、自分自身と初蝶という二物が重なり、像を結んだ瞬間が鮮やかに蘇り、それが誕生日という特別な一日の隅々にまで浸透していくさまが、豊かに想像できる。
 次に、眞吾さんの<ひとり>の世界に触れてみたい。

  ひとり居の時計の刻む寒さかな
  初蝶やひとり飯食ふ誕生日
  淋しさに夜毎水替ふ水中花
  鞦韆をひとりゆらして正午なり
  種袋鳴らしてひとりきりの闇

  <初蝶>と<誕生日>の二つの言葉が含まれる句は前にも引いたが、こちらは、<飯食ふ>という生活の一部を詠むことによって、さりげなく大きな感動が謳われている。初蝶を見たような日は、ひとり居でなくとも、静かな時間を保ち続けたいと思うものであるが、それが誕生日であるところに、何か世の無常のようなものを感じた。私自身も、学生時代から独り暮らしを続けているが、最初の頃は、<ひと>の心の持って行き方にあれこれ苦労したものである。しかし<種>の句からは、世を達観したような、読者に安心感を与えるよう<ひと>の世界が描かれている。
 また、忘れてはならないのが、句に漂う面白さ、おどけである。

  襟巻の顔が自慢でありにけり
  手花火の足で足かきゐたりけり
  嘘つくな舌が真赤ぞ掻き氷
  すぐむきになるが欠点唐辛子

 襟巻の句は、朴訥としながらも、どことなく母性本能をくすぐるような風貌を想像させ、手花火の句は、決して憎めない、素朴な性格を思う。
 眞吾さんはまた、人一倍、師を想う気持ちの強い方である。これまで、「富士」、「初蝶」をそれぞれの師の逝去により去られたせいもあろうか、次の句からは、心の非常に近いところに師を感じつつも、尊敬の念を抱く気持ちが読み取れる。

  みな胸の奥に師がゐて温め酒
  逝く秋のにぎるほかなき掌
  師に会ふ日赤き丸つけ新暦

 次に、眞吾さんの詠む美しい自然の情景の句を引いてみたい<みづがめ>の句は、すべて仮名で書かれ、春のやわらかさ、そして、水瓶の持つ透明感を思わせる。<白鳥>の句からは、白鳥が舞う嫋やかな情景が、<荒き>との対照から明らかにされる。

  みづがめにただよふはるのおちばかな
  雨粒の一つ一つに冬木の芽
  敗荷の風が曲りて敗荷に
  潮騒の窓にのこりし春の星
  白鳥の舞ふまで荒き足使ひ

 最後に、句集名にもなった次の句を引いて、本稿を閉じたい。有馬主宰はこの句について、序文の中で、「くどくどと運が悪いと歎いてもう柿を食べるのを止めたかと思うと、もう一つ食べるとどんでん返しをする。ここが面白い。」と記されている。運が悪いと歎き、自棄になっているような時に齧るには、柿のような固さがちょうど良いのかもしれない。

  柿食べる運を歎いてもう一つ



           (平成12年天為8月号掲載)