小原啄葉句集『永日』

<句集評>

       「血あらきわれに」 永遠と永日  

                柚木 紀子



   狐火の大き遠野へ来なされよ    啄葉   『遙遙』

    岩手の地底には何か神秘的な物質の鉱脈が
   埋蔵されている気がする。     村野四郎

 『永日』の一句一句は、人を慈しみ、永き日の縁側を、とんと叩いて「ここに来なされ」と招いている声。民話、伝承、祭、の闇の奥処へ、不思議を忘れた現代人を、いざなう火。

       ◆ 青邨の血

 詩の本質、本当の詩のいとなみ、は人間存在そのものの根源への、帰還にある。《風土》とは、この根源の近みの、《場》にほかならない。この視座では確かに「俳句は風土の詩」。しかし『永日』鑑賞は啄葉の「しかし」で始めたい。
 「しかし私はあえて風土俳句を作ろうと意識したことは一度もない。気候的にも厳しい北国の環境の中で、真摯なおのれの生きざまを、詩に託してきているだけである。」平成九年、氏が句集『滾滾』により、第三十六回俳人協会賞を受賞されたときのこの言葉を、筆者は花束贈呈のお役目から、最前列で耳傾けて聴いた。そこに脈うつ青邨の血を聴いた。

   みちのくの鮭は醜し吾もみちのく  青邨
   北国の血あらきわれに花垂れて  啄葉 『北の貌』

 「虚子は俳句は自然を詠むものであると割切った。しかも人間も自然の中にふくむと言った、すこし苦しい、そして今日はもっと複雑である。」と言い切った青邨。虚子をして、「燃ゆるような情熱が反抗的にある」(『雑草園』序文)と洞察せしめた青邨。青邨は「複雑さの克服」の中で「俳句は作家個人の生活の体験の声であり、作家の肉体の叫びであることを述べている」(石原透『山口青邨研究』)(傍点筆者)

       ◆ 肉体の叫び

 「飢餓の歴史と幕末の賊軍のレッテルとを負った運命」の「理不尽を呑み下し、努力と忍耐によって人を培った風土」(石原透、同右)に生まれた第一句集『北の貌』の啄葉の叫びを聴かずに、『永日』の真価は、語れまい。

   鱈を割く吹雪に女襤褸鳴らし        『北の貌』
   野火を責め来し少年の腋匂ふ         〃
   つばめ巣にあふれ父祖より無一物      〃
   田螺取る横顔汝も北の貌            〃
   蚯蚓浮き雨脚あらき冷害田           〃

 「サムサノナツハオロオロアルキ」の宮沢賢治体験をした啄葉であった。『自註句集』の氏の言葉は痛切だーー「姥捨野に捨てられた老人は、自らの生命の尽きる日を、遠い早池峰の神に向かって祈りつづけたという。・・・村の男が死ぬときは姥捨野から山唄がきこえてきたという。・・・」と。

   地吹雪やさきのさきまで姥捨野      『自註句集』
   夕風に雪庇のとがる姥捨野          〃
   早池峰山へ手をかざしては踊りけり    『永日』
   とどきたる遠野の歯朶のみづみづし      〃
   姥捨といふいちまいの花野かな        〃
   死者はみな平らに運ぶ雲の峰         〃

 右掲出第一、二句と第三以降の句には二十年の隔たりがあるがいずれも力むことなく自然体でありながら、《姥捨》を思う心のまなざしの先にあるものの明度が微妙に変質している。肉体の叫びが、いつしか存在の讃歌に変容している。

       ◆ 共同体(コミュニタス)感覚

 小原啄葉著『風土の詩』一四三頁の述懐は、個を超え全的に善意に生きようとする魂の表出・啄葉作品の、培養基さながらである。ここでも青邨と啄葉は二重うつしになる。

  北国に住む人々には厳しい自然との闘いはあるが、人間同士の闘いはない。温かい心と心の連帯による社会こそ  厳しい自然条件の中で共存していく道であることを、自ら悟ってきたからである。青邨が清純であり、ひろく人間を愛し、 一木一草に至るまで慈眼をもって接する態度も、このことと無関係ではない。(『風土の詩』)

 右の言葉を証しするような句群を掲げよう。自らを「植物性の人間」と自称した青邨に較べて、啄葉句には、動物が頻々と登場する。しかも氏の共同体意識には人間近くに馬、熊、海鼠、蝸牛、鶏、蛇、蝶などが、人の如くに加わっている。特筆すべきは《異界》をも、潜み込ませていることだ。

   雪へ置く熊の腑花のごときかな      『永日』
   熊の肉配りあるいて村八戸          〃
   盆の鶏月のあかりに遊びをり         〃
   八十八夜にはとり畑に卵生む         〃
   馬の尾をながながと吊り鳥威し        〃
   人込みに鬼がもまれし花会式         〃
   蛇捕りの手のお握りを貰ひけり        〃
   かたつむり肉余さずに仕舞ひけり       〃
   尺取虫遠見の胸を立てにけり         〃
   ひくく舞ふ冬蝶ふいに高く去る        〃
   かぶさつて海鼠が海鼠隠しけり        〃
   もうすこし生きて海鼠と付き合ふか    『永日』

 自然の厳しさ歴史の苦境に鍛えられた共生感は《信、望、愛》の光を纏い、『永日』に《永遠の相》を展開させた。副題を(ギリシャ映画「永遠と一日」に因んで)ーー永遠と永日ーーとした所以である。自ずから死者生者共生感もある。

       ◆ 死者生者共生感覚

   佛壇の中にも喜雨の匂ひかな       『永日』
   さなぶりやおタケもウメも皆死にし      〃
   トメ死んだ次は俺やと胡麻叩く        〃

 早苗饗という華やぎの、生命力芬々たる座のただなかで死者を思い、生の地続きに死が描かれる。胡麻叩く日常の気安さで己が死を呟く。喜雨の匂いは奥様の魂の香であろう。

   姥捨の野へ遠出して恋の猫        『永日』

 死者の世界へ出入り自由な恋の猫、そして恋。

   鳥帰ることにもふれし弔辞かな      『永日』

 「希望の神学」という言葉をふと思い出させるような、不滅のいのちを、予感させるような《鳥帰る》の韻き。

   手を握り妻を眠らす団扇かな       『遙遙』
   なきがらの冷えよりも冷え白浴衣       〃

 前句《手》も《団扇》も眩いほどの象徴に。後句、具象も物象感もみるみる昇華されて、《愛》と《聖別》が馨る。

   節分の鬼が雪掻きしてゐたり       『滾滾』

 追儺は人を鬼界に、闇の力に触れさせる。「雪掻いて雪掻いて夜は深酒す」の啄葉さんは心やさしき赤鬼かも。鬼とは《詩歌に優れた者として人間界に現れるもの》の意もある。
 「岩手の自然というものは気心の知れない野獣だ。岩手人は縄文的、直観苦に満ちた(略)韻文家、超現実的性格の持主」と石上玄一郎が書き「縄文狩猟時代の血がいまも、そこに生きている人をして自然の内側に立たしめ、傍観の場に立つことを拒否している」と真壁仁が言う。(『樹氷』昭54・9)死者との共生の感受力喪失は現代人の魂の危険信号だが、啄葉は人類永遠の願望を、感受できる《漢》。

       ◆ 漢の両義性

   霜踏みてをとこ不毛の地へ挑む     『北の貌』
   熊撃の漢の葬の直ぐをはる        『永日』

 「直ぐをはる」に漢の生が彷彿と。日常事の熊撃で熊の死の現場に佇むことを繰り返した漢は、もう一人の祭司。

   海へ向き鮭打棒の素振りかな       『永日』
   むかうより蹴られし榾火蹴りをさむ      〃

 右も漢くさい句だ。鮭のいのちと対峙、火と対峙の祭司。

   濁流へ横すべりして蝮落つ         『永日』
   冬の蝶翅をつかひて地をあるく        〃
   鰻裂く目打まつすぐ打たれけり        〃
   鶏毟る火をあかあかと冬田かな      『滾滾』

 凝視するうちに対象の感情までわかるようになる、と青邨は言った。啄葉の写生は全て其処まで極められ、その凝縮と形象の力はおそろしいほどだ。右四句は筆者に基督の受難を一瞬垣間見させた。ショックであった。漢とは何なのか。
 ”男”は”女”に対するもの。しかし”漢”の原義は人間ではなく銀漢すなわち天の河である。「漢は・・・《今人謂ニ賤丈夫一曰二漢子》とあるように正統的な価値体系からみて、蔑視される側にある。それが反転して男子の美称になるのである。このように天に起源をもちつつ、地上では”賎”とその反転像としての”聖”に通じる両義性を持つ”漢”は・・・”貴種流離譚”の英雄にもっともちかい。」(磯田光一)

       ◆ 《詩のある風土》から
             《詩のある宇宙》へ

   松島の佳き松にゐる初鴉         『永日』巻頭句
   OにまたQにスワンの寝ね深し       〃  掉尾句
   虎落笛たてがみ立てて曲り来し       〃   
   牛小屋のどの窓からも盆の月       〃   
   啄木鳥のこぼすものみな幹にそふ     〃   
   一ト滴こらへてゐしが氷りけり        〃   
   吉里吉里の海へそひゆく暦売        〃   

 啄葉句の明確さ、複雑さの純化は、筆者にパラフレーズを拒ませ「詩は説明すると陳腐になる」ことを思いしらせる。右七句は風土に身を溶かし風土を超えている。当り前の現象は何一つないことを告げている。鶯でなく鴉である佳さ。OにQに睡る不思議。虎落笛も「乾坤の変」、宇宙意志。牛たちに月を月であり続けさせる見えざるものの慈しみ。こぼすものみな幹にそう万有引力。一ト滴がこらえる表面張力。釜石市北の大槌町吉里吉里(きりきり)を、固有名詞の枷から解き放ち、韻と文字面に”聖”を蘇らせた”暦売”の季語を超えた力。《暦》は《日知り》すなわち《聖》に源を持つ宇宙的スケールの言葉である。「宇宙に働く大きな善良な力を信頼して、自分をその大きな力に参与するものとしてつつましく位置づけることからくる・・・」「品位」と「落ちつき」(来住英俊『とりなしの祈り』)の句集『永日』は、宇宙へ開かれている。

       ◆ 火と

 この「品位」と「落ちつき」は隠遁のそれではない。難解も破調も表現の荒れもない啄葉は、しかしながら、「燃えつづける火」を内蔵している。族長モーゼがその中に現存する神の言葉を聞いた、あの《火》を。

   噴火鳴り枯野に降りし一羽毛       『北の貌』
   障子貼り噴火の唸り高くしぬ         〃
   船を待つ焚火をかこみ翁の忌       『永日』
   貞任の奥六郡へ野火猛る           〃

 言の葉めく一羽毛。日常に立つ非日常の火柱。芭蕉共同体の囲む炎。俘囚の長の鎮魂の猛火。青邨譲りの激しさで啄葉は呼びかける。「型に入り…型を破って自由奔放に自分の俳句を作るのがいい。…青邨はそれを「八方破れ」を称していた。新鮮な句は、そこから生れる。(『樹氷』平成15・5)」と。


                   (平成16年 天為1月号 掲載)