<書評>
戸恒東人著
『詩人うたびとたちの漂泊の風姿』を読んで
日本全国に亘る吟行必携 畔上 東川
平成十八年二月、本阿弥書店より右の著書が発行された。
芭蕉・曾良から放哉・山頭火まで、とあるとおり、多くの詩人たちの旅路の跡を追って、彼らが何故その地に来たかに思いを廻らせたものである。第一部「最果の旅路」から第十一部「南海の彷徨」まで、北から南へ順に百十三話が綴られており、その一話ずつが独立しているので、ちょっとした時間に気の向いたところを拾い読みしても良い。一話当り三、四ページだが、そのまとめ方は要を得て簡潔であり、関連した事実を実によく調べて紹介している。一読してああ良かったと書架に収めてしまってはもったいない。背後に駆使されている資料を点検してみれば、如何に労作であるかが判るばかりでなく、句作りの上でもこの上ない参考資料となるであろう。通読の後は常に携行して、出典や現地資料などを確かめつつ、吟行の資とすることをお勧めしたい。
さて、内容を拝見してみよう。話の展開の仕方が連句のように響き合うものを踏まえているので、誠に心地よく読み進むことができる。
例えば、第一話「宗谷の門波」では、
文化五年(1808)、間宮林蔵(1780〜1844)は松田伝十郎(1769〜1842)と共に宗谷から樺太に渡り、樺太が離島であることを確認した。翌1809年には、さらに奥地に入り、シベリアにまで脚を伸ばした。間宮林蔵のこの発見は、サハリンと樺太とは別の島でありサハリンとシベリアとは陸続きであるという当時の説に対して、サハリンと樺太とは同じ島のことでありかつ離島であるという地理学上の重要な発見であった。林蔵の発見したこの海峡は間宮海峡と命名され、日本人の名前が唯一地図に書き込まれるという名誉を担った。
日本の地図帳では「間宮海峡(タタール海峡)」と表示されているが、タタール海峡はまた韃靼海峡とも言われていた。
と紹介した後、「韃靼」を受けて、山口誓子の句を引いている。
郭公や韃靼の日の没るなべに誓子
ここからは誓子の紹介が続き、十一歳の時に樺太に渡ったこと、父母との縁が薄く、母方の祖父母の許で養育され、五年間樺太に滞在したこと、大泊中学四年の春に京都一中に転校したことなど、興味深く展開されていく。
凍港や旧露の街はありとのみ誓子
流氷や宗谷の門波荒れやまず誓子
山口誓子の二句の背景を説明した後には、
えぞにうの花や誓子の門波立つ東人
と著者の一句が添えられているが、このパターンがほぼ全体に行き渡っている。
さて、標題にも掲げられている芭蕉・曾良についてはどうであろうか。『奥の細道』の旅に従って第二部「陸奥の旅人」で十二話に亘り取り上げている他、第四部「東都の過客」第三十四話で「深川芭蕉庵」について、第五部「海道ぶらり旅」で第五十四話「奥の細道結びの地大垣」と項を設けてそつがない。その他にも関連事項ができればそのつど引き合いに出している。第十話「多賀城碑と壺碑」の項に「芭蕉が訪ねたみちのくの歌枕のうちで、最も感激したのは壺碑(つぼのいしぶみ)を実見したときであろうと思う。」とあるので紹介しておこう。
みちのくの奥ゆかしくぞ思ほゆるつぼのいしぶみ外の浜風
という西行の歌に「壺碑」を見た芭蕉は、『奥の細道』の中で碑文を詳細に引用していることからもその感激ぶりが窺えるとして、さらに分りやすく解説している。ところが「壺碑」には昔からいろいろ問題があった。続く第十一話「日本中央の碑の謎」では、「つぼのいしぶみ」の伝説の内容は、平安時代末期の歌人藤原顕昭の編んだ『袖中抄』に見えるもので、九世紀初頭に大和朝廷による蝦夷征討が、さらに北方の奥地にまで進攻した際、征夷大将軍坂上田村麻呂が陸奥の最奥の地、都母(つも・つぼ=現在の青森県上北郡東北町、旧天間林村(現七戸町)を中心とした上北地方あたりとされている)の地に、大きな石の表面に弓の筈で「日本中央」の文字を彫って建立したというもので、高さは四、五丈(約一四メートル)であったという。と説明した後、昭和二十四年六月、青森県東北町で「日本中央」の石碑が発見されたことを紹介している。これもまた、「多くの学者や技官が鑑定調査したが断定は避けられている」としながらも、東北町では「日本中央の碑歴史公園が整備され、」(中略)「高さ五尺五寸ほどの丸みを帯びた茶褐色の「日本中央」の碑が鎮座している」とある。東北町はJRの鉄道距離でも多賀城碑から三百キロメートル以上も北へ離れたところである。
話が少し逸れて恐縮であるが、昭和五十年過ぎ頃の『読売新聞』の切り抜きに「西行谷と芭蕉」という題で目崎徳衛の一文がある。「(前略)西行が草庵を結んだのは実際には西行谷ではなくて、二見浦であったらしい。(中略)この場合だけでなく、芭蕉の歴史知識は大体不確実な物語や伝説に拠っているのであるが、しかし常に虚実を越えて一挙に先人の精神と交流しえた所に、なまなかの歴史家などの追随を許さぬその詩魂の輝きを見るのである。」とあった。今のように図書館が整備されていたわけでもなく、ましてパソコンがあった訳でもないのだから、無理からぬことと思うが厳しい指摘である。
私はこの「多賀城碑」をかつて書の手本として臨書したことがあるので、改めてその謎解きに興味が湧いてきた。このように空想を繰広げていけば誰でも俳句が詠みたくなるのではないかと思われる。
次の「中尊寺を訪ねる」では「西行の足跡を慕う旅に出、またその当時日本最高の英雄であった九郎判官義経のことが好きであった芭蕉は、五月雨の降りしきるころ、奥州藤原氏三代の栄華の跡をとどめる平泉(現岩手県西磐井郡平泉町)へと向った。(中略)近世になって光堂と呼ばれるようになった金色堂は、天治元年(1124年)に上棟したもので、中尊寺創建当初の唯一の遺構である。堂は内外ともに厚く黒漆が塗られ、その上に金箔が押されている。堂をすっぽりと覆っている建物を覆堂というが、最初の覆堂は正応元年(1288年)に鎌倉幕府が造立したもので、芭蕉が金色堂を訪れたときに見たものはこれ(旧覆堂)である。」その後『奥の細道』を引き、
五月雨の降り残してや光堂 芭蕉
を掲げ、「昭和三十七年からは、破損の著しくなった金色堂の大修理が行われ、創建当初の輝きを取り戻し、さらに平成二年にはコンクリート製の新覆堂が完成した。旧覆堂はいまも保存設置されていて、芭蕉や曾良が梅雨晴間に参拝した当時の面影を湛えている。芭蕉の<五月雨の…>の句碑は、江戸時代に地元俳人によって建てられたものである。」とし、次の二句が添えられている。
光堂かの森にあり銀夕立山口青邨
光堂より一筋の雪解水有馬朗人
尾崎放哉の項は第九部「内海の遍歴」で八十五話の「尾崎放哉と小豆島」である。
底がぬけた柄杓で水を呑まうとした 放哉
すばらしい乳房だ蚊が居る 〃
咳をしても一人 〃
などの自由律俳句を作り、種田山頭火(たねだ・さんとうか1882〜1940)と共に放浪の俳人と称せられた尾崎放哉の人生は、全く破滅型の人生であったといえる。尾崎放哉は、明治十八年(1885年)鳥取市生まれ。本名秀雄。明治三十五年鳥取第一中学校を卒業し、一高文科一部に入学。同期に華厳の滝に投身自殺した藤村操、一級上に荻原井泉水(本名藤吉)がいた。明治三十八年東京帝国大学法学部に入学。その年、従妹の沢芳衛(さわよしえ)に結婚を申し込んだが、医科大学生であった芳衛の兄静夫の強い反対にあって断念。この頃より、酒に溺れるようになった。学生時代から俳句を作っており放哉または芳哉の俳号を使用していた。明治四十二年、東京帝国大学法学部を卒業。卒業証書は四年間受け取りに行かなかった。日本通信社に入社したが一ヶ月で退社。明治四十四年、坂根馨と結婚、東洋生命保険(現朝日生命)に就職した。
大正三年、東洋生命大阪支社次長として赴任。しかし酒癖が悪く、また帝大卒に対する妬みなどを受け、社内の人間関係がうまく行かなくなる。
この後本社に戻るが大正九年三十六歳で退社。故郷鳥取に戻っても酒に溺れる乱れた生活を送っていた。大正十一年、心配した大学の恩師らの斡旋により、朝鮮火災海上保険支配人として京城(ソウル)に赴任したが、酒癖の悪さからか社長の命により馘首された。一旗上げなければ日本に帰れないと長春に行くが肋膜炎のため満州病院に入院。十月頃帰国、妻とも離婚。既に四十歳となっていた放哉は、京都鹿ヶ谷の西田天香の主宰する一灯園に入ったが厳しい托鉢の生活に馴染めず脱走し、知恩院塔頭常称院の寺男となるが、荻原井泉水と会って酒食を共にし、酒に酔って帰ったため即刻追放になった。その後須磨寺に入り、一日中お神籤を売っていたが、このころより独特の俳句に目覚めてくる。
こんな良い月を一人で見て寝る 放哉
ところが、居心地の良かった須磨寺も内紛のために追われ結局井泉水によって小豆島に送り込まれ、西光寺の南郷庵(みなんごあん)に入った。井泉水始め多くの句友に夥しい生活用品と金銭の無心をしていたが、井上一二や西光寺住職の杉本玄々子はじめ島の人たちに助けられながら俳句三昧の生活を送ったが、それも二年、大正十五年四月七日に病死した。今は南郷庵は尾崎放哉記念館として整備されているそうである。
九十話では種田山頭火の登場であるが、彼もまた「ひとところに安住することなく、行乞と放浪とを繰り返し、金が無くなると托鉢をし、あると酒を飲んで泥酔し、女を買い、さらに金が無くなると友人に宿や金や物を恵んでもらうという乱れた生活をしていた。彼は請われるままに俳句を条福や色紙・短冊に書いた。生涯の句数は八万句ほどあると言われるが、句集は『草木塔』(昭和十五年刊)一冊のみである。膨大な句の中から厳選された山頭火の句はさすがに素晴らしい。
鉄鉢の中へも霰 山頭火
へうへうとして水を味ふ 〃
うしろすがたのしぐれてゆくか 〃
と紹介した後、「山頭火は、昭和十五年十月十一日、一草庵にて死去、心臓麻痺と診断された。一子健が勤務先の満州から帰国して葬儀が行われた。享年五十九。墓は防府市の護国寺にある。」と結ばれている。
第十部「西海の羇旅」では九九話「松浦佐用姫伝説」を覗いてみよう。(前略)唐津の「鏡山は別名領巾振山(ひれふりやま)と言われるが、これは松浦佐用姫(まつらさよひめ)伝説による。と前置きして、次のように展開している。
松浦佐用姫伝説として一般的に伝えられている話は次の通りである。
宣化天皇二年(537年)十月、大伴狭手彦(おおとものさでひこ)は朝廷の命を受け、新羅の攻撃を受けた任那・百済を救援するため軍を率いて松浦にやってきた。狭手彦は名門大伴氏の凜々しい青年武将であった。しばらく軍を松浦にとどめている間に、狭手彦は土地の長者の娘で絶世の美人であった佐用姫と知り合い夫婦の契りを結んだ。やがて狭手彦の出船の日、別離の悲しみに耐えかねた佐用姫は鏡山に駆け登って、身にまとっていた領巾(ひれ)を必死に打ち振った。その当時は、領巾を振れば邪気を払い願いがかなうと信じられていたからである。軍船は次第に遠ざかり小さくなってゆく。狂気のようになった佐用姫は、鏡山を駆け降り、栗川(現在の松浦川)を渡って海沿いに北に向って走ってゆき、やがて加部島(かべしま=呼子町)の天童岳の頂に達したが、遂に舟が見えなくなるとその場にうずくまり、七日七晩泣きつづけ、とうとう石になってしまったという。(岸川龍著『松浦佐用姫伝説』による)
この伝説は、『備前風土記』や『万葉集』にも記されているが、右にいう伝説とはそれぞれ若干の差異がある。『万葉集』には、
松浦縣佐用比賣の子が領巾振りし山の名のみや聞きつつ居らむ 山上憶良
遠つ人松浦佐用比賣夫戀に領巾振りしより負へる山の名
(巻五・八七一)
などの歌があるが、いずれも領巾振山という名を持つ鏡山の
名の由来を佐用姫伝説を持ち出して詠んだものである。このあと近辺の現況などを手際よく紹介して著者の一句が添えられている。
露けしや石ばかりなる城遺構 東人
引用ばかり多い下手なご案内はこれくらいにして、そろそろ終りにしよう。巻末の「著者紹介」を見ると東京大学法学部卒業、大蔵省入省。神戸税関長、造幣局長と出世街道を進み、その後は中小企業金融公庫理事、あずさ監査法人特別顧問を歴任する傍ら俳誌「春月」の主宰として全国に句友を持ち、沢山の著書を出しておられることが分る。羨望の的としか言いようのない人生を歩んでおられる著者が、何故今『漂泊の風姿』であろうか。「あとがき」の冒頭に「ある日突然妻子を捨てて、好きなところに出掛けて行って、暫く居ついて、いい女と所帯を持って、飽きればまた家に戻って、元の鞘に納まるなどということが許されるならば、それこそ夢のような人生かも知れないが、現実にはそうは行かない。」とある。他人から見てどんなに恵まれた人生でも、そつなくちゃんと生きてゆくにはそれなりの束縛の中に身を置かなければならない。それを振り捨てて漂泊すれば、掲載された何人かのような人生になってしまう。とは言え、人間誰でも多少は漂泊に憧れるもののようである。再び目崎徳衛の言で恐縮だが、その著『漂泊 日本思想史の底流』(角川選書78 昭和50)から次の一文を引こう。
人を漂泊に駆り立てるのは、得体の知れないある奥底からの衝動である。詩人芭蕉は、もとよりこれを理論的に解明することはしなかった。その代わりに、常に我が身を吹きさらおうとする「風」の動きに託して、切実に告白したのだ。芭蕉が古今の大漂泊者とみられる理由の第一は、このデェモンが強烈に生涯を支配しつづけたことにある。しかし、そうしたデェモンは多かれ少なかれ万人の内に潜み、時として理由もなくそのうながしに心を狂わされるのである。」
最後に『漂泊の風姿』中に掲げられた著者の句で、私が一番好きな一句を挙げて筆を擱きたい。(七十七話「弘川寺と西行」より)
西行の墳遠巻きに山ざくら 東人
(平成十八年二月・本阿弥書店刊)