天為二百号記念特集

    「検証・戦後俳句」
      もう一つの俳人の系譜



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      右城暮石論

      
 ー 水平な視線の人 ー


                  梶 倶認



   一

 私が、右城暮石という俳人を知ったのは、今から二十年以上も前のことである。

  上げ泥に蝌蚪の形の現るる      『天水』   

 田圃から上げられた泥の中に蝌蚪がいたということを句にした作品である。この句の眼目は、蝌蚪が現れたというのではなく、蝌蚪の形が現れたというところにある。上げ泥の中にいた蝌蚪、これも作り方によっては、興味深い作品になるのかもしれない。しかし、蝌蚪の形という表現は読む者に驚きを与える。私たちが視覚で物を認識するときは、物の形か色からであり、蝌蚪も泥も同じような色をしているから、蝌蚪を認識するのは形しかない。つまり、蝌蚪の形が現れることから蝌蚪がいることを認識することができるのである。この句は、このような当たり前のことを作品化している。驚くが、この当たり前に気付くとき、読む者は納得するのである。私は、最初にこの句を読んだとき、驚き、深く納得した。それとともに、右城暮石という俳人が印象に残った。


   二

 右城暮石は、明治三十二年七月十六日、高知県長岡郡本山町字古田小字暮石(くれいし)で、神官の子として生まれた。俳号の「暮石」は生誕の地によっている。出生地は、高知県の山村であり、このことが暮石俳句の最も基礎を形成している。大正七年、大阪電灯会社(後の関西電力株式会社)に入社し、大阪市、奈良県といった関西圏に居住するようになる。これは平成四年に高知県に帰郷するまで続く。大正九年、大阪電灯会社の社内句会に出てから、句作をするようになり、この年に松瀬青々の主宰誌「倦鳥」に入会する。昭和二十一年、長谷川素逝主宰の「青垣」に同人として参加すると共に、「風」にも同人として創刊時から参加した。昭和二十二年、古屋ひでをに西東三鬼を紹介され、日吉館句会に参加するようになる。暮石は、「俳句」昭和三十五年五月号の楠本憲吉のインタビューに答えて、このときのことを「最初に三鬼氏にお会いした時にですね。こんな俳人がいるのかとびつくりしましたよ。およそそれまでに会つた俳人にあんなお行儀の悪い人は一人もいなかつたですからね。」と語っている。昭和二十四年、「風」の同人を辞し、「天狼」同人となる。昭和三十四年七月二十日、第一句集『声と声』を刊行(序は山口誓子)。昭和四十五年、第二句集『定本上下』を刊行。昭和四十六年、この『定本上下』で、第五回蛇笏賞を平畑静塔と共に受賞した。昭和五十六年六月二十五日、第三句集『虻峠』を刊行。昭和六十年八月二十五日、第四句集『天水』を刊行。平成元年三月一日、第五句集『一芸』を刊行。平成六年九月九日、第六句集『散歩圏』を刊行。暮石は、平成七年八月九日、脳梗塞により死去した。享年九十六であった。


   三

  着物かけてそれを眺めて夜寒かな
  何の苦もなささうに死に金亀子
  女のこと思ひ出さする春蚊かな
  大根は手が抜けるやう重たさよ
  近よりて雛に顔が丸うなる
  冬の蜂落ちて息してゐたりけり
  雷雨中別なる降りになる音す
  春の日は天鵞絨に褪せ玻璃に歪み
  耳病めば冬日かゞやきわたるかな

 句集『声と声』から「倦鳥」に発表された作品を抄出した。これらの作品に共通するのは、日常の一齣を軽妙に切り取り、読者に提示しているところである。また、客観写生だけと言い切れない主観の匂いがしている。このような傾向は、結局暮石俳句をずっと貫いていくものであるが、その出発点は、松瀬青々にあるようである。松瀬青々は、ホトトギスの編集をしたことのある作家であり、「自然が持つ秘密、この秘密に触れなければならぬ。」、「作者が作にかゝつてゐる時は無我である。たゞ不思議の力が凝然たる自己を動かすのである。」等を作句の信条としていた。青々について、どのように見ていたかというと、先の楠本憲吉のインタビューに対し、暮石は次のように答えている。
  「句中に作者の主観が滲透していなければとよく言われました。」「『思ひに思うところに句あり』とも言ってますし、一口にと言えばまあ主観俳句とでも言うべきかと思います。しかし、小主観は絶対に排すべきだと言つてました。」、「写生はおろそかにすべきではないが、しかし写生だけであつてはいけないということですね。というのは、作品の裏側にあるものが大事だということ、裏付けですね。主観の裏付けがなければだめだということです。」
 暮石のこのことばは、そのまま自作について語っているように思える。このことから暮石に対する松瀬青々の影響が如何に大きいかがうかがわれよう。また、同じインタビューで、暮石は、青々について、次のようにも言っている。
  「青々と言う人はもう俳句一本の人でしてね。私なども外見は同じようでも、俳句一本ではなくて、作句一本の方ですがね。青々のは芭蕉のこの一筋につながる方の一本で生涯を謙虚に自己凝視を続けた作家だと思うんです。ただ青々につながる吾々にも、謙虚に作品と取り組む気持、それは伝わつていますね。口をあとにして手を先にする、青々からよく言われたものは残っていると思うんです。余り他を気にしないで、実作に精進すれば、何時か眼は自ら展けてくる。そんなところが現代俳句にもつながる、と言つたところでしよう。」
 暮石の作句生活を考えると、暮石は青々のこの作句態度をそのまま承継したように感じられる。

  一筋の縄にて冬の子等遊ぶ
  風呂敷のうすくて西瓜まんまるし
  しんと静まり返り忘年会終る
  火事赤し義妹と二人のみの夜に
  ざぼんの厚き白き皮剥ぐ人の妻
  春の猫我に倚り来る固き頭蓋
  キヤンプの灯流れの荒きところにも
  蟷螂の斧からませて雄同士
  愉しさに似し風邪熱の兆しくる
  火事衰へゐたり電柱の尖燃えて
  生き返る蠅腸を曳きずりて
  芥子坊主どれも見覚えある如し

  『声と声』の中から「天狼」参加以後の作品を引いてみた。『声と声』の序で、山口誓子は、「右城暮石氏は「倦鳥」と「天狼」の接木作家である。「倦鳥」を台木として、それに「天狼」を接ぎ、自己を進めた作家である。」、「暮石氏は「倦鳥」に「古」を求めて、それを「新しき古」として「天狼」に生かしたやうに思はれる。」、「伝統を新しく生かすと言つたとて、その伝統は将来、いつの日かに消えて失くなるかも知れぬ。たとへ消えて失くなるとも、現在に於いてはこれを新しく生かすことに努めねばならぬ。これが作家暮石氏の信念である。」と書いている。確かに、「天狼」参加以後の世界は、題材や句の言葉の斡旋等に山口誓子、西東三鬼等の「天狼」の作家の影響が見られる。
 ところで、「天狼」で、暮石はどのように見られていたのだろうか。沢木欣一は、「天狼」昭和二十七年十月号において、暮石の俳句について、「暮石俳句の面白さは、市井人の濁つた逞しさとそれとうらはらの一掬の涼味が入り交つたところにある」、「彼の人柄、そして句には生活の「とぼけた」面白さが漂うている。」、「ユーモアとペーソスのもつれ合つた面白さである。彼の句は肩をいからして対象を正攻法で攻めるといつた句ではない。対象の一寸した隙間にしなやかにするりと猫のように身を潜らして吾々の見落とし易いもの、忘れ果てゝいるものを取出して来るといつた俳人である。」と書いており、神田秀夫も、「天狼」の昭和二十八年五月号で、この見方に賛意を表している。これらの評には注目しなければならないものがあるように思われる。それは「市井人」という言葉や「ユーモアとペーソス」という言葉に現れているものである。これらは暮石が主観に裏打ちされた客観という青々から継承したものと関係している。そして、これらの作品のうちには、日常の一齣に過ぎないものの背後に生にかかわるすごい世界が揺曳しているものがあるが、これも青々から来た事物を把握することに対する真摯さから浮かび出た世界なのだろう。


   四

  竹馬の躓きしもの見ず倒る
  露舐めて犬が犬捕り知らざる地
  蝌蚪太り来しよ農婦に似て来しよ
  まだ何もせぬ根切虫見つかりし
  大迂回して山火事へ消防車
  酒やめよ煙草やめよと青葉木菟
  翅持たぬ子を置きざりに油虫
  終電の寒さ新聞拡げ合ふ
  人間に蟻をもらひし蟻地獄
  羽根拡げ鵜飼終りし鵜が甘ゆ
  凍蝶の掴みて離さざるものよ
  夕立に看板の美女抱き入るる

 第二句集『定本上下』から作品を引いた。先に書いたように、暮石は、昭和四十六年、この『定本上下』で、第五回蛇笏賞を受賞した。「天狼」の昭和四十六年九月号で、暮石の受賞を受けて、特集が組まれている。この特集で、興味深いものを次に引用する。草間時彦は、「右城さんは飽くまで地味な人である。少しづつ積み重ねて来たものが『上下』となった。そして、今後も同じ歩幅の歩みを続ける人だ。俳人の生き方の一つの典型であると思うのである。『上下』の優れているのは地味なばかりでなく、この人独特のとぼけた味が生きていることだ。地味なだけだったら、受賞に値したかどうか判らない。このとぼけた味は右城さんの天稟であると共に、彼の人生哲学でもあるのだろう。」と書いている。また、堀葦男は、「暮石俳句においては、いつも自然が主座を占めている。自然の大肯定があり、作者は自然の玄妙を、それとの出会いの都度、敬虔な態度で受容する巫女の役割をつとめている。俗情、俗念を払って、自然の玄妙を活写する。強いて作者の感情をそこに求めるならば、それはかかる受容のよろこびであり、かかる対自然の人生の覚悟に限られるかのようである。」と書いている。
 これらの暮石評を読んで感じるのは、「天狼」の作家暮石の評ではなく、「倦鳥」の作家暮石評ではないかということである。さらに、昭和の初期から「倦鳥」等で、行を共にしていた細見綾子は、「俳句」の昭和四十六年六月号の「右城暮石掌論」で、『声と声』に「倦鳥」の世界の影響について触れた後に、「青々は『自然の持つ秘密に触れなければならない』と言っているが、暮石さんは五十年になんなんとする歳月を費やしてこの秘密に触れようと努力し、実際に触れたものが今や確かである。」と書いている。つまり、暮石は、「天狼」の影響を受けながら、「倦鳥」の世界、青々の世界を深めて行ったものと言える。
 暮石は、三鬼の衝撃を認めているが、三鬼の世界に行かなかったのは何故か。この答えは、楠本憲吉のインタビューに対する次の発言にあるように思える。
  「しかし余り謙虚になり過ぎると、三鬼氏はどこへ連れて行くか分りませんのでね。それで多少後退して、広い道へ引き返して歩いているんです。三鬼氏ももう見放しているようです。」
 この発言からうかがえるのは、暮石が、コスモポリタン三鬼に肌が合わないものを感じていることである。暮石は、三鬼に注目し、関心を持ちながらも、自分と異なるものと感じ、結局は三鬼の世界とは異なる世界を造り出したのである。


   五

 暮石が青々から継承したものの実質は何だろうか。
 青々の俳句は関西文化を大切にした作家として迎えられた。この理由について、暮石は、楠本憲吉のインタビューに対し、次のように言っている。

  「大阪は町人の町ですから、どうしても権力的なものに抗して強く自由を求める」、「とに角取り澄すと言うことが、嫌いでくだけたことが好きですね。」、「青々にはこの大阪人の特徴が色々あつたと思うんです。適例かどうか知りませんが、けやけき言葉つまり目立つ言葉はいけない、そしてくだけてざんぐりしたものがよいとよく言われました。」、「口語、俗語が多いと言うことは、自由にそしてくだけた気持を現そうとしたことだと思うんです。」、「よそ行きでなしに、ふだん着の気持、つまり不自由なものを拒否するものが自然に出ていると思うんです。」

 青々のこのような特質は、市井にいて、水平な視線でまわりの事物を観察し、その観察に自分の肌にあった感じを抱き、それを表現するということに繋がるように思える。垂直な視線ではなく、水平な視線、これが関西の視線であり、水平であるから、自分の感情を大切にする。その結果、先に書いたように作品に主観の裏付けが伴うようになる。市井で生きていくということは自分の感覚を大事にすることである。垂直な視線ではないので、このような感情を殺すようなことはできない。
 暮石は前に書いたように、生涯のほとんどを関西で過ごした。青々の俳句、俳句に対する思い、俳人としての生き方を身近に見てきて、青々の関西の俳人としての特質を継承したように思える。このことが、沢木欣一の「市井人の濁つた逞しさとそれとうらはらの一掬の涼味が入り交つたところに」暮石俳句の面白さを感じるという評に繋がるだろうし、「対象の一寸した隙間にしなやかにするりと猫のように身を潜らして吾々の見落とし易いもの、忘れ果てゝいるものを取出して来る」俳人というものが形成されたのだろう。


   六

 右城暮石が蛇笏賞を受賞した句集である『定本上下』までの作品から、暮石作品の特徴について考えてきた。蛇笏賞を受賞したときには、暮石は既に七十二歳になっていた。暮石は、この後に九十六歳で亡くなるまで四冊の句集を刊行している。暮石俳句の基本は『定本上下』までに定まったように見えるが、この四冊の間に暮石の世界はさらに充実したものとなって行く。
 ところで、暮石は関西の俳人としての特質を青々から継承したと書いたが、暮石によって描かれた関西はどのようなものだろうか。

  壬生狂言鬼女に食はれし男消ゆ       『虻峠』   
  檐裏に火の映えて来しお水取
  藁塚も入鹿を誅すはかりごと
  奈良の寒弛む平城京趾より
  花御堂巨勢野の花を摘み集め
  榛の花高野聖の行きし道            『天水』   
  加はりてお水送りの手松明
  若狭井へお水とどけと大護摩火
  涼しげな行者さままた西行さま         『一芸』   
  どんどこ船出て大阪の祭らし
  鬼女の手は老いし男手壬生狂言    (句集未収録)   
  壬生狂言しぐさの酒に酔ひつぶれ   (句集未収録)   
  火の行事多くて二月はじまりぬ     (句集未収録)   

 句集『定本上下』にも、「船渡御の曳き船船の笛鳴らす」という佳句がるが、これらの作品から感じられるのは、関西、特に奈良の文化に対する暮石の深い愛である。暮石がもともと関西的なもののを持っていたためか、これらの行事に触れることで、関西的なものが生じたか、それは分からないが、いずれにせよ、奈良を始めとする関西は暮石作品の基礎になったことは明らかである。そして、暮石作品の関西は、土俗の世界に足を踏み入れるのではなく、あくまでも平明である。これは、水平的な視線を持った暮石という作家の体質によるもののように思える。

  ストーブを消せと遺影に咎めらる        『虻峠』   
  すこしづつ焚火に入れて遺品焼く
  妻の遺品ならざるはなし春星も
  遺影の手触れよこれこの蕗の薹
  眠りても妻居らざりし昼寝覚む

 暮石は、昭和七年に「倦鳥」の同門であった安永房子と結婚したが、昭和五十三年、七十八歳のとき、妻房子が逝去した。これらの作品は、亡妻を悼んだ作品である。市井派暮石の感情が自然に言葉に現れていて、読む者の心を打つ。特に大仰な表現になっていないところから、却って暮石の心の内が分かるようである。
 暮石の主宰誌「運河」の現在の主宰の茨木和生氏によれば、妻を亡くした後、暮石は小旅行を繰り返し、どん欲に対象に直に触れた感覚を作品化することを行ったようである(「そら恐ろしい「老い」」「俳句研究」昭和五十六年五月号。「向上一途の思い」「俳句研究」昭和六十二年十月号)。対象を見る目は鋭くなり、物の本質から提示されるような作品が書かれることになった。また、どん欲さから新しい素材を扱った面白い作品も書かれた。

  蝉の殻見るにも女科つくる           『天水』   
  雨蛙落ちしところを鯉襲ふ
  山のロッジ天水白く氷りたり
  一芸と言ふべし鴨の骨叩く           『一芸』   
  蠑螈浮く宇宙泳ぎをするもゐて
  長たらしままこのおしりぬぐひとは

 これらの作品に共通して感じられるのは、やはり水平な視線で対象に迫っていく作家暮石の強い意志である。


   七

  藁塚に大小のあり吾も在り           『声と声』   
  藁塚やわれも藁家の子と生れし
  亀石の眠りを覚ます耕耘機           『虻峠』   
  農の皺手にありありと花会式
  耕耘機心許なき音出せり            『天水』   
  耕耘機牛糞に似し泥落す            『一芸』   
  目立つ色荒く塗りたるコンバイン        『散歩圏』   
  どこをどう通りて来しや代掻機
  田植せし身を薬湯にあたたむる
  作業用具多し農家の年用意

 暮石の農に関係した作品をいくつか取り上げた。これらの作品に共通しているのは、農に対する親しさである。暮石が生まれたのは、口減らしのため、嬰児圧殺を行った地として記録されているような高知県の山村である。暮石の意識の中には、この山村が原風景としてあり、農民や農業が常に身近なものとしてあった。暮石の精神の基礎を形作ったのは、この農の意識であったのだろう。細見綾子は先に引用した「右城暮石掌論」で、奈良の自宅での暮石の生活について、「俳句を作り、読書をし、まくなぎをしたたか打って畑の草むしりをし、自分の作った青野菜をかじり、まことに腰を据えた生き方をしている。腰を据えた生き方は腰を据えた俳句なのであって、少なくとも右城暮石においては同時なのである。」と書いている。農業の世界は自然と非常に密接した世界である。暮石の作品を読んで気が付くことだが、蝌蚪や蟻地獄を題材にした作品が多い。これらは暮石の慣れ親しんだ自然の代表として作品に現れているように思える。そして、自然に対する暮石のこのような性向は、自然賛仰を作句理念とする青々から多大なものを承継する原因になったのだろう。「声と声」の山口誓子の序ではないが、暮石という作家は、高知県の山村で培った感性を台木として、青々の関西的な感性を接穂として、豊かな実りを遂げた作家なのではないだろうか。
 暮石は、平成四年に高知県に帰郷するが、帰郷前後の自由自在に対象を扱っている作品や故郷に対する思いが現れた作品を紹介して、暮石作品の引用を終わりたい。

  指入れて部厚き羽毛鴨の胸          『散歩圏』   
  近しとも遠しともただ春を待つ
  払ひたる蟻がきよとんと吾を見る
  へろへろとおたまじやくしの生まれたて
  一色がよしチューリップ赤がよし
  水呑んで水吐いておたまじやくしかな
  池の鴨見にどやどやと五六人
  散歩圏伸ばして河鹿鳴くところ
  帰り来て古里の春惜しむなり
  我が坐せるところ孫の手蠅叩
  夕立を待てり草木虫魚みな
  ふるさとの鴨猪を薬喰            『散歩圏』補遺 頑張れよ 
  ふるさとの春一番を知らざりし
  放流の稚鮎元気に頑張れよ
  落し文知つてゐるから拾はずに
  ピーマンの力みて青が赤くなる


   八

 右城暮石という作家は気になる作家だった。しかし、面白い作家だという感じはしていたが、それ以上に注目したことがなかった。今度まとまって作品を読み返してみて、改めて面白い作家だと思った。ただ、言い訳になるが、私が暮石に強い関心を持たなかったのには無理からぬ理由がある。私自身、地方で生活したことはあるが、農の生活が身近だったとは必ずしもいえないことと、これより重要だが、私が関西に住んだことがないことである。
 対象に対するどん欲さ等暮石の作句態度は、現代の俳人が学ばなければならないと言えよう。また、水平な視線は現実の中で面白いものをつかみ出す上で重要だろう。このような水平な視線で、対象をつかみ出し、それに対する普通の感情を作品に盛ること、これは現代の俳句に大いに参考になることである。

(参考文献)引用の文献のほか、『定本右城暮石全句集』(監修茨木和生編集運河俳句会)邑書林・平成十五年十月十一日刊