十人十色2022年11月 対馬康子選
真夜中の火山噴火や百舌の贄★池西季詩夫
世紀末のようなただならぬ気配である。地球温暖化の影響による異常気象が世界各地で発生し、大きな自然災害が起こっている。平年とは離れた異常気象が、異常ではなく常態化してきていることを実感する。
ましてや日本は、百を越える活火山がある火山列島である。火山は様々な恵みをもたらせてくれている反面、日本のどこに住んでいても地震の怖れからは逃れられない。
若い頃、旅でポンペイ遺跡を訪れたことを思い起こした。ヴェスヴィオ山が噴火したのは午後一時頃だが、噴火から約十二時間後に火砕流が発生し、ポンペイ市は一瞬にして埋まったという。真夜中の火砕流とは壮絶だ。
富士山大噴火が警戒されているが、それでもその瞬間までは、人々は平穏な日常が明日も続くことを疑わず暮らしている。木の枝に刺さったまま、形をとどめながらも渇き、忘れ去られた鵙(百舌鳥)の贄。生命体としての地球そのものの命の循環に非情な摂理が見える。
茫洋と向日葵うなだれて黒し★小池 澄子
向日葵の花が、ロシアとウクライナの戦争、それに対する平和の願いの象徴のようになっている。植物は自然の中にあって、ただそこに存在しているだけで、本来は何も背景はないはずだが、桜も向日葵も人間がいろいろな紐づけして勝手に多くを背負わせている感がある。
俳句に登場する向日葵は、多くが太陽に向かって顔を向けているという明るい詠み方が多い中で、ここでは救いようがない様だ。見渡す限り黄色の花が咲き、その花の盛りが過ぎ、花びらも葉も長い茎も「茫洋と」黒く、悄然と枯れ尽くしてしている。その景の切り取り方は、芭蕉の「五月雨に鳰の浮巣を見にゆかん」と、降り続く五月雨にそぼぬれながら、あえて浮巣を見に舟を出すことと通じている。
飛鳥なる古墳のくびれ鳥渡る★白井さち子
奈良飛鳥の高松塚古墳の小高い丘。その石室に発見された壁画が目に浮かんだ。七世紀末から八世紀初頭にかけて築造されたという。石室の中でひっそりと眠っていた四人の女子群像の色鮮やかな立ち姿は、天平の世の一シーンを生き生きと伝えてくれる。
しかし、その保護は実にたいへんである。文化庁によって対策が取られているが、発見当初から脆弱な状況にあった上、長い間閉ざされていた石室に人が入ったことで逆に環境が乱れ、現在は黴などを避けるため壁画は取り出されて保存されたまま石室に還れずにいる。
丸い古墳の丘のやわらかなくびれに、歴史を紡いでゆく母なる大地を求めるように、はるばる鳥が渡ってきた。
どんぐりを呉るる幼子木を指して★金田ふじ江
幼い子から手のひらにどんぐりをもらう。手渡しに来て「あっちにいっぱい落ちてるよ」と、木の方向を教えてくれる子どもがかわいい。伸びてゆく未来への希望が伝わり、読者も幸せな思いになる。
ずっと以前に「孫」という孫賛歌歌謡曲が大ヒットしたが、孫の字を直接詠み込んだ名句はなかなか生まれない。いわゆる孫俳句は、表現が甘くなるので気を付けなければならないと言われ、はてはタブー視までされている。
こういう私も、「孫」という字を使うのではなく「赤子」や「おさな子」などを代わりに登場させている。しかし考えてみれば、俳句の三協会はどこも平均年齢が七十五歳を越え、九十歳、百歳の人たちが当たり前に俳句という文芸を楽しんでいる時代である。祖父、祖母世代が俳壇人口の中心、多数派なのだから、もはや誰に遠慮することなどなく、詠みたければ堂々と「孫」「曽孫」を登場させて、いっそ一つのジャンルを作り出せば面白いのではないだろうか。
迎火や禽は塒へ戻りしか★河野 伊葉
お盆の入りに先祖の霊を迎える目印として、戸口や門で苧殻火を焚く。帰って来るたましいが迷わないように火を焚いてお迎えする。
私の子どもの頃は、実家が浄土真宗だったせいかどうか、迎火を焚いた記憶がなく、代わりに盆提灯を仏壇に飾っていた。父が亡くなった新盆に焙烙と苧殻を買って初めて迎火を焚いてみたが、帰ってきてくれただろうか。
陶淵明の漢詩「飲酒」の中に「菊を采る東籬の下/悠然として南山を見る/山気日夕に佳なり/飛鳥相ひ与に還る」の有名なフレーズがある。東籬に咲いている菊の花を手折り、悠然と南山を眺める。夕日に映える山のたたずまいを、飛ぶ鳥が連れ立ってねぐらに帰っていく。
芭蕉も矢立初めの一句に鳥を啼かせ、その目に泪を浮かべさせた。掲句でも人間のたましいと自然とが一体化して、しみじみとした情感が漂う。
竿燈の意気穹天の昂りに★山田 一政
高く大きく撓る竿灯を操る心意気は俳句に多く詠まれていて珍しくはないが、見事に操るその気が大空そのものの昂りとなっているという壮大さが良い。
他に「馬口労の住みし裏町竿灯祭」「裏町やきちきち結はふ竿灯棹」「竿燈の妙技繰り繰り闌けにけり」などの作品も臨場感をもって伝わる。特に「裏町や」の句は、地元秋田の方ならでは地に足の着いた写生の目が効いている。
星冴えて母嬰児置いて旅立ちぬ★外山 輝雄
投句はがきの通信欄に句の背景が短く書かれていた。お母様は作者を産んだと入れ替わりに亡くなられたという。記憶にない母のぬくもりを恋う思いは永遠に切ない。母親は子供に惜しみなく愛を注ぐと言うけれど、親が子に対するよりもっと、幼い子どもが母親に向ける思いの方が純粋で強い。母親は子から、何も見返りを求めない無償の愛をもらい続けるのだ。
廃園の傾ぐ回転木馬炎ゆ★宮代 麻子
横浜ドリームランドや奈良ドリームランド、また「としまえん」も二年前に惜しまれながら閉園した。としまえんの回転木馬「カルーセルエルドラド」はおとぎの乗り物だった。閉園でなく廃園という言葉に時代の斜陽感が強い。炎天下、子供の笑顔で満たされるはずの木馬が回ることもなく傾いでいる。傾ぎながらも木馬はまだ動こうとしているかのようだ。
初秋や雨を表すフラダンス★永野 裕子
文字を持たなかった先史時代のハワイでは、「フラ」は体験や出来事を後世に伝える手段であって、神への信仰を表す厳かなものであったという。肘を軽く曲げ両方の腕を上からゆっくり下ろす。自然と一体となった中で南洋の雨が降る。夏から秋の気配へ季節がまた一つ移ってゆく。
美しい声がゐました蛍籠★今山 美子
鳴かない蛍の声を想像する。さぞ美しいに違いない。光ではなく声に発想をもってきたところに切なさがある。姿にも増して声に愛しさは募りゆく。『源氏物語』蛍の巻に、兵部卿宮の「なく声も聞こえぬ虫の思ひだに人の消つには消ゆるものかは」に対して、玉鬘から「こゑはせで身をのみこがす蛍こそいふよりまさる思なるらめ」と歌のやり取りがある。
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