十人十色2023年2月 福永 法弘選
初しぐれ次の介護へ漕ぐペダル★野口 日記
単なるしぐれではなく、「初」が頭についていることに注目したい。芭蕉の『猿蓑』冒頭に置かれている句(初しぐれ猿も小蓑を欲しげなり)は古来、時雨に濡れそぼつ子ザルを哀れに思った芭蕉が「きみも蓑が欲しいのかと、憐れみと親しみの情で呼びかけた」とされていたが、能楽学者の能勢朝次が、「初は年の初めのものを賞玩する感じがあるので、小猿ですらも、時雨の風情にしみじみ興じている」のだと解釈して以後、「初」の働きが俄然注目されることとなった。
この句、もし季語が「しぐれ寒」であれば、「この先寒くなる。自転車で介護に回るのはなかなか辛い」となるだろう。しかし、「初」を冠して、今年初めての時雨を愛でる気分が横溢していることから、訪問介護を楽しみに待っている人がおり、その期待に応えるのが自分も喜びであり、ペダルを漕ぐ足におのずと力が入る、となるのである。
初鶏や急に満ち来る克己心★益永 涼子
この句も頭に「初」を付けた季語を使っている。元旦の明け方に鳴く一番鶏が初鶏で正月の季語だ。鶏は年中鳴いているが、新しい年が始まるに際して聞くと心改まった気分になる。その初鶏に「急に満ち来る克己心」をぶつけたところが実に若々しい。才能が有っても、地の利を有していても、己の心が弱ければ、何事もなしえない。
幕末、大阪で乱を起こした大塩平八郎は『弟子に与える説』で「世為海身為舩心為舵」、即ち、世間は海、身は船、そしてそれを動かす舵は心だと教えた。大事なのは己の心をいかに制御するかなのである。
栃餅の縄文色や白山麓★魚谷美佐栄
栃餅は栃の実を餅にしたもので、茶色がかっている。その色を縄文色と言ったのがこの句の手柄だ。縄文の頃にも食べていたに違いないとの想像が湧く。かつては土地がやせた山地の貴重な栄養源だったが、採集や灰汁抜きに手間がかかるため、今は家庭で食することは廃れた。しかし一方で、地域の特産品として見直されており、きっと、白山麓の村でも、村おこしに一役買っているのだろう。
露の玉夜明けに祈るための数珠★森野 美穂
露の玉、芋の葉の上に表面張力で丸くなった露の玉の数々を、紐から離れて飛び散った数珠に見立てた句。そして何よりの眼目は、その数珠(すなわち露の玉)が、夜明けという限定的なタイミングにおいて祈るためのものであると言い切ったところだ。凜とした清潔感がある。
身に入むやシモーヌ・ヴェイユの深き淵★小林美佐子
シモーヌ・ヴェイユはユダヤ系のフランス人哲学者。スペイン市民戦争に参加したり、ナチに迫害されたドイツ人の亡命を助けたり、ド・ゴールの亡命政権「自由フランス」で働いたりしたが、生前に一冊の著作もなく、三十四歳で亡くなった。死後、膨大な遺稿が発刊されるや、俄然注目され、夭折の哲学者としての評価を得た。深き淵とは、凡人には覗き得ない、天才の心の深奥だ。病弱ながら、いやむしろ病弱故に、短い生涯を情熱的に生き急いだのだろう。
秋耕に手のひらメガホン昼を告ぐ★田中 九青
耕(たがやし)は冬の間手入れをしなかった田畑の土をおこして、植付けの準備をすること。ことさらに春耕と言わなくても、耕だけで春の季語だ。一方、秋耕は一毛作田の稲を刈った後を鋤き、おこす。翌年の作業を容易にするためだ。また、裏作のための耕も秋耕という。春と違って秋は、収穫の喜びを得た後での作業であり、心の持ちように余裕がある。両手のひらを筒のようにして、遠くで作業している人に「お昼ですよー」と声を掛ける。豊秋の後の農村ののどかな光景だ。
印刷は時の旅人鳥渡る★岡部 博行
ヒトはまず声を発し、言葉を作り、文字を発明し、他の動物とはまるで異なるコミュニケーション力を身につけた。そして、印刷技術により、情報を革命的に拡散・共有できる社会を築き上げた。昔、活版印刷の祖はグーテンベルグだと習ったが、木版で世界最古の印刷物が作られたのは天平時代の日本であり、孝謙天皇の発願により百万塔陀羅尼経が刷られ、小塔に収められて各地に配られた。そして現在、その時の塔が四万五千強、経巻が二千強残っているというから驚きだ。そうした印刷から見た人類の歴史を、新富町の「ミズノプリンティングミュージアム」で知ることが出来る。
月と星蝕み合へる神の留守★井上 淳子
去る十一月八日、月が完全に地球の影になる皆既月食と、月が天王星を隠す惑星食が同時に起こり、日本中が沸いた。今月の投句にも、月食・惑星食を詠んだものが多数見られた。
さて、月は秋の季語だが、月食は季節を問わず起こる現象のため、季語とするには無理がある。従って今回、季語無しに月食のみを詠んだ句は全てボツとした。この句、「蝕み合う」という把握が、他の多くの投句の中で群を抜いていた。
仕来りが何だい老いの寝正月★今村 直子
季節の運航に合わせて人は様々な行事を考案し、単調に陥りやすい生活にアクセントと彩を添え、世を渡る知恵を身につけてきた。しかし、それらが煩わしくてたまらなくなることがある。仕来りがなんだ、人の目がなんだと、時には思い切り居直ることも大切だと教えてくれる一句。
秋惜しむ曝貝白き浦の浜★古川 洋三
曝貝(されかい)は水や光に長い間さらされた貝殻が光沢を失い、脆く白化したもの。人の頭蓋骨が野晒しになって白骨化したものをしゃれこうべというが、あれと同じだ。季節は秋から冬へ。寒々とした集落と浜が目に浮かぶ。
錦秋や三年ぶりのOB会★小林 守克
コロナ禍は未だ終息せず、油断できない状況が続く。だが、ワクチン普及により重症化リスクが低減したことなどから、各種会合も徐々に復活してきた。この句、母校か職場かのOB会だろう、まさに時事俳句。作者は有馬先生とほぼ同齢。先生は残念ながら他界されたが、守克さんはこの三年間を無事に乗り越え、仲間との再会を喜び合われたのである。
一巡しまた大賞の菊の前★橋本 綾
菊花展で大賞を取った菊を先ず見て、その後に全体を一回りし、再び大賞の菊の前に立ち戻ったのだ。他と見比べ、なぜこの菊が大賞を得たのかを、改めて納得したのである。
黄葉かつ散るカーナビにまどはされ★永野 裕子
私事だが、晩秋の一日、信貴山朝護孫子寺に出かけた。ナビに従って車を走らせていると、途中から車一台がぎりぎり通れるほどの細さとなり、その上、対向車まで出現。行き違うために車をバックさせたら、なんと、落葉に埋もれて見えなくなっていた溝に脱輪してしまった。下手な運転が恥ずかしく、そして何より大困り。カーナビに全幅の信頼を置くと、思わぬ道に迷いこまされることもある。ご用心。
白息よ空に上がって雲になれ★杉山 昌紀(中一)
昔、『ノンちゃん雲に乗る』(石井桃子)という童話があった。いつの世も、大人も子供も、空にあこがれる。
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