天為俳句会
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十人十色2023年9月 西村 我尼吾選

    捩り花ゲノムは宙を目指しをり   ★白井 さち子 
 
 
俳句は本質直感の短詩型文学である。眼前の対象はまず景の中のものと認識される。井筒俊彦はそれを「不定知覚」と呼ぶ。意識がそこに集中する時に、自分の過去の経験や、知識などの作用によりそれが捩り花であると認識される。それを有本質的「限定知覚」とする。その限定の仕方は千差万別であり、まず表層意識の上で記憶、論理的な判断、書物からの知識などにより限定知覚として「花」と認識したうえで、さらに捩り花であるという「本質」にたどり着く。限定知覚の深まりは、ここから表層意識を超えた見えないものを直感できれば、自分の心の底に潜むデーモンに出会えることになる。作者は、ゲノムの螺旋が宇宙における生命の誕生につながる壮大な物語を本質直感して見せた。

   空海の飛白体なる夏の雲       ★武井 悦子 
 
 
空海は真言密教の第八祖となることができた。唐において空海は不易流行を実践した。唐において卓越した宗教人であるばかりでなく、音韻学者であり、詩人であり、書家でもあり、唐の文化の流行を全身で吸収し、習熟した。空海が齎した文鏡秘府論こそが、その後の日本における詩歌のよって立つ基本資料となっている。楷・行・草・隷・篆の五つの書体において卓越の技を身に着けていたが、筆の作り方まで研究した。王羲之も用いていた飛白体という刷毛でペイントするような独特の書法も学び、流行の先端を体験し、日本にもたらした。夏の雲の跳ねるような広がりに、空海の飛白体を見出し、新しみは俳諧の花という思いを巡らせている。

  夏の夜や貝開くやうに旅鞄       ★久世 裕子 
 
  私はこの十五年間、毎年地球六周ほどを旅した。それも長距離というよりはインドネシアを起点にアセアン十か国、インド、中国、韓国、オーストラリア、ニュージーランドを中心に閣僚会議の旅をした。ロシア、EU、中東、アフリカにも会議で呼ばれた。会議に次ぐ会議で、戦略的発言を考える旅であった。旅の盟友ともいえるトランクも部屋に置かれ少し開いて閉じるのも忘れて仕事をしていると、この作品のように貝が口を開いて、トランクが私を見ているようであったと今になって実感した。夏の夜の出来事。何とも言えないもったいない日々の過ごし方であったと思う。

   素戔嗚の涙のしづく青葡萄      ★森 尚子 
 
  素戔嗚は記紀によれば、生まれてから泣き続けた。泣き方は、哀しいとか感情に揺り動かされて泣くのではない。世界秩序の始まり以前の泣き方が、素戔嗚の泣き方である。それは命あるものを滅ぼすほどの破壊力のあるものとされた。素戔嗚が泣くことによって、言語形成以前の心の深層にある巨大なエネルギーを呼び起こす。本作品は素戔嗚の破壊の涙と草田男によって「葡萄食ふ一語一語の如くにて」とうたわれた葡萄との対属・配合の作品である。しかもまだ青いままの葡萄である。青い木は素戔嗚の涙で枯れ木にされたが、さて叡智の葡萄はどうなるのであろうか。

   「金属は疲労する」友より五月    ★鈴木 弥生 
 
  俳句は、短詩である所に本質がある。俳句は短い散文ではない。表層意識を突き破って心の源底に潜在するなにものかを呼び覚まし、量子波動関数が収束するように、俳人には伝わるのである。それは論理とか理性を超えたものである。「金属は疲労する」という科学的事実を友から受け取ったのか、友からの五月の連絡をそのように感じたのか。疲労ということばは「火をも水と言いなす」俳諧語としての「疲労」である。金属もその対極にあるこころも、ともに疲労するのである。
破格の十七音の二句一章が不思議な伝達力を高めている。

   残照の鷭の笑ふや常陸利根      ★鹿志村 余慶
  
  常陸利根川は、江戸へ通ずる重要な水上交通路で、商人たちが生き生きと活躍する姿がカムイ伝第三部に描かれていた。
鷭は笑うと言われているが、私は笑う鷭を聞いたことがない。どちらかというと高い声で、呼びかけているような気がする。しかし、この作品では、残照の常陸利根の大景の中でちっぽけなともいうべき鷭が呵々大笑している景が描かれている。それはあたかも、作者の深層意識に展開される異形の世界のようである。時代を超えて活気を与える超現実の世界は、「残照」の「常陸利根」の風土の生活者だけが感じ得る奇跡である。

  恥多き人生とは川辺の紫陽花      ★川野 恵  

  人生とは恥多きものである。よくもまあ我尼吾は恥ずかしげもなく、世界の碩学に対していろいろな議論を行ってきたものである。しかし表層意識である恥は深層意識の源底に届くことにより元型的イマージュを励起することがある。元型イマージュはそのまま意識表層に上がってこないが、それにまとわりつく想像イマージュは意識表層に上がってくる。作者においてはどんなことがあっても、川辺で可憐にその色を変えながら美しく咲く紫陽花の花が恥の意識の励起する想像イマージュとして浮かび上がってきたのである。なんと美しき恥多き人生であろうか。

   蒼朮を焚き曼荼羅の古き寺      ★大和田 和子 
 
  曼荼羅とは言語阿頼耶識の呪術的エネルギーによって生起したイマージュが織りなすものであり、「元型」的「本質」の描き出す「存在」の深層意識的図柄であって、空海のような特殊な訓練を経た宗教家が認識するに至った深層世界全体を「元型」イマージュの象徴体系として提示したものである。
  それは文字、絵画、装具、立体像などの四種の曼荼羅が存在の相互依存性を象徴するとされる。複雑で高度な曼荼羅を保護するために淡々と蒼朮を焚いて湿気や黴を防いでいる古い寺がある。曼荼羅の秘蹟と日常の行為との対比が「俳諧の句」である俳句の諧謔性を生み出している。

   麦秋やテオに宛てたる長き文     ★久根口 美智子  

  課題句においては芭蕉がやろうとした季語の深化という点から現代において、象徴語としての季語をいかに機能させるかという点に力点を置いてきた。この作品においてはただ、ゴッホが弟のテオに宛てた長い手紙を上げているだけである。ゴッホの手紙の中で述べていることは極めて俳句的である。要するに本質直感の絵画を打ち立てたいと述べている。正岡子規の主張した非空非実の絵画ということにつながる。麦秋という季語は麦畑や向日葵を書いたゴッホの全盛期を表す季語であるが、その二年後に自殺するゴッホの人生をも象徴する季語として使われている。

   一山を浮かべて匂ふ花蜜柑      ★有働 利信  

   五大に皆響き有り
   十界に言語を具す
   六塵悉く文字なり
   法身は実相なり
  声字実相義の偈頌という短詩である。認識作用には塵に過ぎない人間から見れば六種あるとされる。その中の一つが、香塵(鼻根の対象)である。香りも文字である。花蜜柑の香しい香りは、その文字をして一山を浮かべるほどの力を持っている。その景が圧倒的力を持って迫ってくる。「青山常運歩」と山が動くことを喝破した禅僧芙蓉道楷の世界を思わせる。

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