天為俳句会
  • ホーム
  • 天為俳句会
  • 有馬朗人俳句
  • 天為誌より
  • お知らせ
  • 入会のご案内
 

十人十色2023年12月 日原 傳選

    水彩のパンのふつくら獺祭忌    長岡 ふみ  

  「獺祭忌」は正岡子規の忌日。子規は明治三十五年九月十九日に三十五歳で亡くなった。子規は食いしん坊であった。その死の前年の明治三十四年九月から死の直前まで記した日録『仰臥漫録』には日々食べた物を記録しているが、病床にあってのその旺盛な食欲に驚かされる。菓子パンが好きだったのであろう。朝食や間食にはよく菓子パンを食べている。また、子規は子どものころから絵を描くことが好きであったが、「小日本」の挿画を描いた中村不折の画論に眼を開かれ、彩色の妙味を知って、晩年の病床では不折にもらった絵の具で草花を写生することを慰めとした。

  ちなみに、『仰臥漫録』の明治三十四年九月八日の条には「晴 午後三時頃曇 暫くして又晴/朝 粥三わん 佃煮 梅干 牛乳五勺(ココア入) 菓子パン数個/昼 粥三わん 松魚(かつお)のさしみ ふじ豆 つくだに 梅干 梨一つ/間食 牛乳五勺(ココア入) 菓子パン数個」と記した後に、四個のパンを描いた水彩画を載せている。それぞれのパンに「黒キハ紫蘇」「乾イテモロシ」「アン入」「柔カ也」と注記を加えた上で、「菓子パン数個トアルトキハ多ク此数種ノパンヲ一ツ宛(ずつ)クフ也」と丁寧に説明している。子規らしい面白いところである。

  掲句はこの日の記事に材を取った作であろうか。「ふつくら」という言葉にパンを美味しそうに描き得た絵筆の力を称える心を籠めた。子規の好んだパンと水彩画の両者を詠み込み、「獺祭忌」の句としてよく出来ている。

    月連れて父の口笛戻りくる      田中 九青  

  月の美しい晩、口笛を吹きながら父親が帰って来たのである。気分の良いときによく口笛を吹く父なのであろう。その口笛の音を耳にするだけで、姿を見ずとも父と分かるのである。月を愛でつつ口笛を吹き、帰路をたどる父。「月連れて」というところに風狂的な気分が感じられて面白い。見事な月夜であることが自然と想像されてくる。

    縁側の無き終の家月祀る       久根口美智子  

  昔は縁側のある家が多かった。名月の夜、芋や団子、薄の穂などを供えた縁側から見る夜空は広く、月の姿もよく眺められた。掲句は「終の家」とあるので、子育てが終り、夫婦だけになった家庭を想像すればよかろうか。もうそれほど広い空間は必要としなくなり、暮らすにちょうどよい新たな家に転居したのであろう。それと同時に「縁側」の無い暮しになってしまったというのである。
   十五夜の月を祀りながら、縁側の無いことが残念に思われるのであろう。かつて縁側で月見をしたことをなつかしく思い返しているのかもしれない。

    水攻めに耐へし忍城天高し      野中 一宇  

  「忍城」は武蔵国埼玉郡忍(おし)(現在の埼玉県行田市)にあった平城。「浮き城」という別称がある。荒川扇状地の末端の湧水地帯と利根川中流域に挟まれた低湿地に築かれた。まわりを囲む広大な池沼と自然堤防を生かした複雑な構造を持ち、関東七名城の一つとされた。『増補忍名所図会』には、忍城を中央に据え、東西に流れる利根川を北に、荒川を南に描いた上で、その周囲に東に筑波山、北に日光、西に浅間山、南西に秩父山と富士山を加えた図が収められている。
   天正十八年(一五九〇)、豊臣秀吉の小田原征伐の際に石田三成によって水攻めされたが、それに耐え抜いたことで知られる。掲句の上五中七はそれを詠みこんだ。「天高し」という季語には難攻不落の城を誇る気分が溢れている。

    電線をさ走る処暑の雨しづく     小池 澄子 

  「処暑」は二十四節気の一つ。「立秋」の十五日後であり、八月二十二、三日頃になる。たまたまその頃に強雨に見舞われたのであろう。宙に渡された電線を雨雫が伝わってゆく。
その状況を「さ走る」という言葉でとらえた。「さ走る」は、勢いよく動くこと。「さ」は接頭語。『万葉集』巻五に<春されば我家(わぎへ)の里の川門(かはと)には鮎子(あゆこ)さ走る君待ちがてに>という歌が収められている。古い来歴をもつ言葉を生かした作。

    豪雨去り朝日に高く秋の蝶      山本てる子 

  夜を通して豪雨が降り続いたのであろう。不安な一夜を過ごしたのち、ようやく雨が止み、朝日を目にすることができた。そして、朝日の昇った空に秋の蝶が高く舞い上がってゆくのを認めたというのである。中七下五で用いられた「あさひ」「たかく」「あきのちょう」という言葉の冒頭のアの母音が響きあい、音の面からも作者の安堵の気持ちが伝わってくる句になっている。

    風早といふ浦ありて鰡跳ぬる     上脇 立哉  

  作者は広島にお住まいなので、掲句の「風早」は現在の東広島市安芸津町にある三津湾の地を指すものと思われる。当地は古くから天然の良港として知られていたようだ。『万葉集』巻十五に<風速浦舶泊之夜作歌「風速(かざはや)の浦に舶泊(ふなどまり)せし夜に作りし歌>二首」という題詞のもと、<我がゆゑに妹(いも)嘆くらし風早の浦の沖辺(おきへ)に霧たなびけり><沖つ風いたく吹きせば我妹子(わぎもこ)が嘆きの霧に飽かましものを>の歌を載せる。

  天平八年(七三六)六月、新羅の国に送った使者が当地で船泊りした時に詠んだ歌とされる。由緒ある地名に対して、作者は鰡の跳ねる景を添えた。それによって滑稽味が出た。なお、鰡は秋の季語。稚魚から成魚になるまでに、ハク・オボコ・スバシリ・イナ・ボラと名が変わる出世魚として知られる。

    二つして前のめりなり瓜の馬     岡部 博行

 胡瓜に脚を付け、馬の形に見立てて霊棚に供える「瓜の馬」。しかし、思うようには上手く出来なかったのである。前方に傾くさまをいう「前のめり」という措辞により、気負い立つような馬の姿が想像されてくる。瓜の馬がともに傾いたさまで並んでいる姿にはどこかしら憐れな感じもある。

    新涼や伊万里の「あを」の濃く淡く  小髙久丹子 

  秋らしい涼気のなかで、伊万里焼を愛でているのであろう。伊万里焼の色絵の磁器は大きな高級品も多い。作者は色絵を構成する「あを」の色に注目した。「あを」の色に当てられる漢字は「青」「蒼」「碧」と複数あるが、漢字を用いずに平仮名書きにしたのは、特定の漢字には収斂し難い微妙な色合いを表現したいためであろうか。しかも、その「あを」は濃淡をもって描き分けられているというのである。読み手の想像に任せた「あを」の色を起点に優美な世界が広がってくる。

    秋の夢セザンヌの画の白き坂     野口 日記

  近代絵画の父と呼ばれるフランスの画家ポール・セザンヌ(一八三九~一九〇六)。セザンヌの描いた風景画のなかに作者の心を離れぬ好みの作品があるのであろう。その絵に描かれた白い坂が夢のなかにふと現れたというのである。幻想的な世界を一句に仕立てた。上五の「秋の夢」は大胆な季語の用い方。五行説において、秋に配当される色は白ということもあり、裏面で下五の「白き道」に繋がってくる感じはある。
 

       ◇     ◇     ◇


Copyright@2013 天為俳句会 All Right Reserved