天為俳句会
  • ホーム
  • 天為俳句会
  • 有馬朗人俳句
  • 天為誌より
  • お知らせ
  • 入会のご案内
 

十人十色2024年11月 大屋 達治選

   更けし灯にちらと尾の影守宮の子      阿部 朋子  
   日盛りの橋に蜻蛉の乾きをり
   遠雷やぴりりと辛きおろし蕎麦

  巻頭の阿部さんの句から三句を挙げる。一句目、守宮は、昼にも見かけるが、多くは夜のガラス窓に貼りついて、そのお腹を見せつけている。この守宮の子は、そこまでの勇気がなく夜の灯におびえて隠れる。その尾の影が見えた、というのである。観察眼の効いた句。二句目は、夏、日盛りで、どこもかしこも炎天下の橋の欄干、とんぼが止っている。熱さで、そのとんぼは乾いている、というのである。とんぼが、湿っているか乾いているか、ふだん、そんなことは考えないが、作者は、このとんぼは乾いていると、感じたのである。新しい感覚である。三句目、遠く雷が鳴っているなかで、おろしそばを食べている。大根おろしのせいで、そばは辛い。口がぴりりとする。その「ぴりり」が遠雷と、どこか響き合っている。感覚が鋭い。
  この作者は、「天為」には、新入会、初投句である。これらの句を見ると、どこか他のところで、俳句をかなり学ばれたように思う。この才能を大切にしてあげたい。

   路地裏の和菓子屋に列盂蘭盆会       大谷 忠美 

  町の通りに、和菓子屋がある。ふつうは、街の本通りに一軒ぐらいはある。お盆の菓子を売っている。さて、詠まれた和菓子屋は、本通りをちょっと入った路地裏にある。地元では、おいしい店と人気なのであろう。客が並んで、列ができている。本通りはシャッターが閉められた店が多いが、この店は繁盛している。「ロジウラ」と「ワガシヤ」という言葉のひびきも、おもしろい。

   大南風引くより早く寄する         波池西季詩夫 

  かなり強い、大南風、みなみかぜ、が吹いている。浜辺では、波がかなり立って、いま寄せた波が砂を引いて海へもどってゆく前に、次の波が寄せて、その引き波を飲み込んでしまう。浜辺でよく見る光景だが、なかなか言葉に仕立てるのは、むずかしい。それを、巧く一句に言い留めた。

   夏の風邪堂堂巡りの夢の中         神田 弘子  

  夏の風邪は、だいたい寝冷えをして、身体を冷やすことから引くことが多い。熱が出て、夜も眠りにくい。そんなときの夢は、堂々巡り。解決したかと思うと、また、元に戻ってしまう。また夢の中で、同じ物事を解決しなければならない。評者も、風邪を引いた時の夢は、砂の壁が、何度も何度も積み直しても、崩れ続ける夢であった。それも、だいたいいつも同じで、不思議であった。作者も、その堂々巡りの夢から抜け出せないでいる。

   海猫と共に渡りて佐渡に雨         谷野 好古

  作者は、新潟市の人だから、新潟港から佐渡島の両津港へ(あるいは直江津港から小木港へ、でも良い)、フェリーで渡ったのであろう。ウミネコという鳥は、あまり人間を恐れず、船について来る。船の船尾のところにできる、上昇気流に乗って、ふわーっと宙に上がっては、疲れると船尾の手すりや旗の先に止まったりする。雑食だから、エサをやると食べに来る。こうして長い海の上を、船とともについて海を渡ってしまう。評者も、昔の青函連絡船で、函館から青森まで、連絡船の船尾のあたりの宙を飛んだり、船のどこかに止ったりして、結局、函館から青森まで渡るウミネコを見たことがある。このウミネコは、せっかく新潟から佐渡へ渡って来たのに、佐渡は、あいにくの雨であった。
  今年は、秋田、山形、新潟あたりで、何度も大雨があった。皆様の無事を祈るばかりである。

   西瓜食ぶ盥囲みし昔かな          江川 博子

  スイカは、夏休みの果物であった。おやつに、半円形や三角形に切ったスイカを食べるのは、それこそご馳走であった。丸いちゃぶ台を囲んで、家族で食べた。種を吐いた。汁が卓上にこぼれた。私が少年時代を過ごした大阪周辺では、そうであった。しかし、富山育ちの作者は、家族で、たらいを囲んで食べたという。私は、それを知らないが、実に、合理的な食べ方である。種も、スイカの汁も、たらいの中に入れば、まわりが汚れない。そういう風習のあったところは、他にもあるのだろうか。

   戦闘と五輪の記事が並ぶ夏         加茂 智子 

  パリオリンピック・パラリンピックが、無事に終った。その各競技の記事は、毎日のように新聞に載った。同時に、ウクライナや、パレスチナのガザでは戦争をしている。オリンピックの期間は、戦争を休止するということが昔はよくあったが、いまは、それはないようである。金メダルの記事のとなりに、何人死亡、という記事が載っている。いやな時代になったものである。戦争の停止を願うばかりだ。

   千年の慰楽鹿あそぶ園に来て        川野  恵

  作者は奈良の方だから、この鹿は奈良公園の鹿だろう。春日大社は、タケミカヅチ、フツヌシ、アメノコヤネ、ヒメノカミの四神をまつり、もともとは藤原氏の氏社であった。そして、鹿は、それらの神の使い、「神しん鹿ろく」として、千年以上大切にされてきた。人をこわがらない。こういう鹿は、世界でも珍しいようで、鹿せんべいを鹿にやる、特に、外国人の姿が、よくTVでも流される。江戸時代まで鹿を殺したものは死刑(石子詰めの刑)だったと言う。そういう公園を眺めていると、自分はいまなぐさみとたのしみばかりある、慰楽の園にいるような気がするというのである。

   猫撫でて僧の棚経始まりぬ         岡本 多美代

  お盆には、お墓参りに行くのが習慣になっているが、お盆のすこし前に、菩提寺のお坊さんが、その檀家に来て、仏壇にお経を上げにくることがある。これを、棚たな経ぎょうという。有り難いが、お布施を回収しにくる、と見ることもできる。僧侶の出張である。そのお坊さんが、飼っている猫を、愛想よく撫でてから、お経を読み始めた。いかにも、ありそうな光景を、うまく十七音に詠み込んだ。

   刈り上げの項の灼けて京の旅        小林 ひろえ  
  夏は、顔や腕に日焼けをする。だから、日焼止めクリームを塗って対処するが、意外に盲点の場所がある。それは、項うなじである。うっかりして、夏の一日を終えると、首のうしろが痛痒い。うなじが日焼けしたのである。それも、刈り上げたばかりだから、よく焼けて痛い。そんな、京都を一日めぐる旅であった。

 他にマルを付けた句より拾う。

   原爆忌いまだガラスの身に三つ       山本 芳江 

  長崎の原子爆弾投下の折に、身体にささったガラスの破片が、まだ、三つも身体に残る。作者は九十二歳。鈴木六林男さんも、銃弾の破片が残っていて、その痕を見せてもらったことがある。

   海の日や岩場に絡む漁網切る        南島 泰生  

  作者は、鹿児島県喜界島の人。臨場感がある。

       ◇     ◇     ◇


Copyright@2013 天為俳句会 All Right Reserved