天為俳句会
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十人十色2026年2月 西村 我尼吾選

   剥ぐ鹿の筋美しと猟師の娘     田中  梓

  猟師という職業は命を奪う職業であり、それゆえに奪われる命に対する深い畏敬の思いを倫理の根底に持つ。その子供たちにもその倫理は厳しく受け継がれる。その通過儀礼として獲物の解体は避けて通れない。この句において獲物の鹿を剥いでいるのは、猟師本人か、あるいは娘かどちらでもよい。剥がれた鹿の身体に残る筋は鹿の生きた運動の設計図であり、射止められるまでの敏捷な美しい運動を実現させていたものである。この猟師の娘は、その死に対して目をそらさず、感傷を拒んで、血の残酷を語らず、厳粛に向き合いながらもそこに美を見ている。人間はすべて奪われた命によって存在するという原罪について「生活の本質」を肯いながら見事に表現している。

   月光よ水底の船抱くまで      嶋田 香里

  月光に水底の船を抱けと命じているものを作者は幻視した。この句に対して月光による沈船への鎮魂という常套的な理解では不十分である。水底の船とは「フネ」という<運ぶ神の器>。水底は出来事の場所ではなく、常に在る基層の位相であり、そこには神話的ヴィークルとしてのフネが恒常的に存在する。月光よ、という呼びかけは主体の祈願ではなく、世界の構造を起動する声である。フネを「意味化」せず抱くまで届けと命じている。しかし、造化が月光に、ノアの箱舟として浮上せよと命じているわけでもない。これは救済でも再生でもなく、存在を有らしめるものの一瞬の出来事の記述である。

    空の色写して清し龍の玉      近藤 博美

 「龍の玉(龍珠・如意宝珠)」は、植物の季語であるが、『淮南子』『荘子』などにおいて存在がいかに成立するかを示す中心的形象として把握されてきた。龍樹の中観思想では、珠とは縁起が縁起として現れる存在様態そのものにほかならないとされる。この句は、龍の玉を霊的実体として描くのではなく、自らの色をもたず、刻々と変化する空そらの色をそのまま写し、空くうが空そら として顕現していることを清しと表現している。   

   笑ひ神囲む小式部白式部       河野 伊葉  

 天岩戸神話において、宇受売命あめのうずめのみことが舞と身体をもって神々の笑いを誘発し、その共振によって天照大神を外へ導いた。笑い神とは、秩序が硬直したときにそれを緩め、世界を再び流動化させる神性である。「大江山いく野の道の遠ければまだふみも見ず天の橋立」の小式部内侍は、和歌的機知によって男性的教養と権威を転倒させた女性歌人である。一方、白式部はめずらしい白実をつけるムラサキシキブ。人の知と自然の無心が交差する地点に、二者がともに「囲む」ことで立ち上がるのが笑い神であると本質直感したのはすばらしい。  

   十六夜も無月の続き風音す     岡崎志昴女  

 満月が陰り始める。月は見えなくとも、夜の世界を調律する原理として働き続けている。十六夜を「無月の続き」と捉える直感は、月を光ではなく世界存在の作動装置として捉え直すものである。その作動を風音に見出そうとする。視覚的中心が失われてゆく夜に、世界は沈黙するのではなく、形なき動きとして自己を示す。作動された風は見えず、触れられず、ただ音となって現れる。風音は月の不在の代替ではない。光を退いてゆく月が、なお世界に触れている痕跡をしめすものである。この句は、月の存在を光から解放し、音として把握した。  

   鳥影のしのびて甘き金木犀     阿部 朋子  

 金木犀の甘さが満ちると、空間は静まり、輪郭は緩み、視覚の支配は弱まる。そのとき、実体を欠く影が、あたかも自律的に忍び寄るかのように現れる。鳥影は実体なき存在である。一方、金木犀の甘さは感覚的実在である。この句は、鳥が金木犀に引き付けられるという物と物の因果関係ではなく、鳥という実態と認識されている「もの」から本質の一部である鳥影が遊離し、金木犀という別の「もの」の本質の一部である「甘き香」と一体となる「瑜伽」の状態を描写している。それは空海が現実言語の上に超言語としての真言を論じたことにつながる。  

 雲暮れて柿も降り面だらう朱      椋 あくた

 栃木県木幡神社に伝わる降り面は、田村麻呂が「東夷の面」を彫刻し「赤鶴の面」と号して奉納したとされ、雨を実際に降らせてしまう霊的装置として語られてきた。出し続ければ災厄に転ずるため、必ず納めねばならないという。雲暮れの下で柿が「降り面だらう朱」と見える瞬間とは、鳥居や社殿の朱と同じく守り(呪力の可視化)であると同時に、血と生命を孕む顕現の徴であり、雨を呼びかねない危うさを警告する色でもある。   

 一畑の渋柿包む夕の闇         松本 秀子  

 渋柿はすぐに甘さへ回収されない実である。夕闇は主体をもたず、選別も判断もしない。ただ到来し、一畑の渋柿を等しく覆う。そのとき数百の実は個別の価値や出来不出来から解放され、数としての輪郭を失い量のまま沈黙する存在となる。夕闇が包むことで畑は通常の労働や収穫の時間から外れ、待機の時間へ移行する。「包む」とは世界が対象を全体として引き受ける仕方である。「包む」とは世界が人の関与を終わらせ、自然の時間へ引き戻す過程を示す語である。  

 祖の墓や砂利のあはひの曼殊沙華    今山 美子

 曼殊沙華は、サンスクリット語の「この世ならぬ吉祥なる美が、かたちを取ったもの」の音訳である。毒の花であり、因果や目的によらず、ただ現れる美しい花とされる。祖の墓という因果の中心に立ちながら、砂利のあはひは、此岸と彼岸の意味づけがあいまいな、定着も説明も拒む場所であり、因果が失効する場である。そこに作者は曼殊沙華を立ち上げる。追慕ではなく、因果が沈黙したとき、天から自然に降る花が理由なく現れるという不思議を示している。  

 ムンクの絵まぢかまぢかと冬の街    山内 三郎  

 ムンクの絵は、見る者の内部で不安や叫びが像を結ぶ装置である。第一の「まぢかまぢか」は、外界の事実としての接近である。ここではまだ作者は観客で、ムンクは対象として立っている。第二の「まぢかまぢか」が来ると、近いのは絵ではなく、絵が呼び出す内面=作者自身の不安の輪郭である。作者の内面が、ムンクという媒体を通して、冬の街という現実に貼り付いてしまう過程を示す。反復によって、作者は「見る」から「見られる」へ、さらに絵の内部で起こっていることが自分の内部で起こることへと位相を移す。

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 十人十色に通底するのは、世界を意味や物語で語る以前に現れるものに対する感受である。巻頭句は命を奪う現実の只中で、死を拒まず美を見出す倫理を示す。第二句は月光に呼応する水底の船を通じ、世界を支える基層的構造の一瞬の作動を捉える。第三句は龍の玉を実体化せず、空くうが空そらとして顕現する存在様態を示す。第四句は小式部と白式部を重ね、知と自然が交差する場に笑い神を立ち上げる。第五句は月を光から解放し、風音としてその持続を聴き取る。第六句は実体なき影と香を結び、感覚が溶け合う位相を描く。第七句第八句は朱や闇を通して、人の制御を超えた自然の危うさと受容を示す。第九句は因果が沈黙する境界に曼殊沙華の顕現を置き、第十句は内面が現実に侵入する瞬間を描く。十句はいずれも、世界が理由なく立ち現れる刹那を静かに捉えている。

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